2021年11月24日水曜日

湯本温泉の震災の影響

 


 




● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を

 
さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に宿泊の翌日は小名浜港などに行って、そこの埠頭の水族館や物産センターで魚介類を購入され、自宅に戻るという旅行のパターンが多かったのが、いわき湯本温泉でした。

 


そして震災による被害で湯本の温泉街や町自体は海岸部に比べると直接的には大した被害ではなかったが、それでも地震の影響で水道、ガス、電気などのライフラインが一時停止して、各旅館では建物が一部損壊、飲食店や一般住宅にも被害が及びました。 又、肝心な温泉水の配管の亀裂によって温泉の配湯が止まるなど混乱は大きいものでした。 

 


、その後は原発事故による住民の避難、観光客の激減、震災関連の作業員の宿泊と撤収など、温泉街の様子を大きく変えるものでした。 震災によって旅館・ホテルに直接被害があっただけでなく、原発事故による住民の避難は営業そのものを困難にしました。 さらに、営業の再開にめどがついた後も観光客が戻らない状況のなかで、ただ国からの休業補償や多くの原発事故の復旧作業員が宿泊の定宿施設として利用することで一時的な収入が得られたものの、温泉街を中心とした街づくりはより困難なものとなっていたともいわれています。

 


又、その後の福島第一原発の津波による事故では、建屋の水素爆発や炉心溶融による危機などがあり、放射能の影響が住民を不安にさせ、高濃度汚染水が海に放出されたこともあって、風評被害当をも含めても放射能との長い闘いが始まることになります。

今までは当たり前のように温泉街の多くの旅館は、小名浜港から直送される海産物を使った料理が目玉でしたが、原発事故を契機にそれを売りにすることは難しくなってしまいました。

 

 

 

 

 ● 震災後の湯本温泉街の宿泊関連、

 


その後の湯本温泉街の旅館やホテルは、震災や原発事故の復興作業員を受け入れるようになりました。 作業員は主に原発作業員、除染作業員、震災復旧工事作業員等で構成され、それらの人員は
2000から3000人のも達し、旅館、ホテルは連日満室の状態となり、売り上げが震災前の2倍になるところもあったともいわれています。


特に、飲食店関係では食堂やスナックや居酒屋は、炭鉱が栄えた時代をほうふつとさせるような大変なにぎわいであり、所謂、町内では「復興バブル」の状況が
2年近くつづいたともされています。 この様なことで、一部の人たちからは街の風紀を気にする声もありましたが、ただ温泉街で復興作業員を受け入れたことで、原発事故収束のためにも大きく貢献したともされているのです。

 

そんな中で、一方では湯本温泉ならではのイベントや祭りも盛んに行なわれるようになっていて、金刀比羅神社の例大祭(1月)、温泉神社の例大祭(5月)、いわき湯本温泉夏まつり(8月)、じゃんがら念仏踊り(8月)、いわき湯本温泉月まつり(10月)等が例年通り開催されています。 また、2016年度封切りの映画、『超高速! 参勤交代』(本木克英監督、佐々木蔵之介・深田恭子主演)の舞台となった温泉地郊外にあった湯長谷藩(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)に因んだイベントも取り組まれていました。

 

以上のようにある旅館の主人は、いわき湯本温泉では、これまでだれも経験したことのない原子力発電所の災害からの復興と再生という、明らかに困難な課題に今後も引き続き取り組もうとしています。 その課題の解決がむずかしいほど、そこに暮らす人びとの「まち」への愛着や誇りが糧となって、ユニークな経営や実践が生まれ続けるに違いありません。 今こそ、日本のどこにもない、世界でもまれな温泉街を生み出す好機と考えて、「ないもの探しをやめて、あるものを磨く」地域づくりの基本にじっくり取り組んでほしいと思います、と語っている。

 

 

 

 

● 老舗旅館の「古滝屋」と考証館

 

ところで、湯本温泉街の中でも天王崎という中心地に有って老舗旅館ともいわれる「古滝屋」では、東京電力福島第1原発事故を伝えるための「原子力災害・考証館」というのを、館内の一部を開放してオープンしたという。 展示数は凡そ100点の資料で、、宿泊者は当然としてもお客さん以外も館内に入って無料で見学できるそうです。

 

考証館は、震災と原発事故で館内を利用する客数が減り、従って、使われなくなった宴会場を利用して行なわれているもので、展示の内容としては防護服を着用して行方不明者を捜索する住民の写真や、津波に巻き込まれた同県内の大熊町の女児の遺品などが並んでいる。 又、住民が起こした裁判の記録、原発事故の関連書類等も展示されている。

 

これ等の資料は旅館の当主である里見氏が被災した住民らと協力して集めたもので、たまたま原子炉建屋の水素爆発が起きた日に合わせて開館したともいわれている。 里見氏は「原子力災害で古里でもある地域の歴史や文化、営みが喪失したのである。 エネルギー問題は東京や福島だけでなく全国の課題でもある。 『己自身のこと』と自覚しながら見に来てほしい」と話している。

 

 

次頁は、「湯本温泉を利用した人たちの口コミ」

 

 

2021年11月22日月曜日

東北大震災といわき市界隈、

 



 

 

● 東北大震災に見舞われたいわき市の概況、

 先ず、発生状況から、東日本大震災は2011年(平成23年)311日に発生した大地震で正式には「東北地方太平洋沖地震」ともいい、地震の規模はマグニチュード9. (M) 最大震度70が発生し、この時点において日本周辺における観測史上最大の地震であるとされている。 

 

また、この地震により津波が発生し場所によっては波高10メートル 以上、最大遡上高さ(山や障害物に突き当たって跳ね上がるときの高さ)が40. mにものぼる巨大な津波が発生し、津波による二次的な大災害が発生した。 又、これに伴う福島第一原子力発電所の事故災害も発生し、東北地方を主として関東地方や太平洋沿岸部に壊滅的な大被害を発生させた。 

 

此の東日本各地での大きな地震や大津波、火災などにより東北地方を中心に22000人余の死者・行方不明者が発生させた。 ご当地のいわき市内においても人的被害は死者・行方不明者350人ほど出していて、倒壊家屋も含めて其の9割以上は津波のよるものであった。

 

この様に沿岸部を襲った大津波の襲来によって街を破壊し尽くす様子や福島第一原子力発電所における原子炉事故と炉心溶融(メルトダウン)の発生は、言うなれば地球規模での大きな衝撃を与えたとされているが、此の大震災が発生した日付から因んで、呼び名を3.11(さんてんいちいち、さんいちいち)などと略称することもある。

 

 

 

 

● 実家であるいわき湯本の場合、

 

さて、いわき湯本の被害状況であるが、地震の様子は震度6程度であり、全壊の家屋や一部破壊があったが、津波に関しては海岸より遠い内部地域にあったために直接的な大被害は無かったが、その後の原発事故後の風評被害など間接的な被害を被っていたことも事実であった。 

 

其の時に、筆者自身もいわき市内に本家や親類等が居りますので連絡を取ろうとしたが、震災の当日、翌日もテレビを見ながら気が付いたのですが、普通電話や携帯電話、それにSNSなどのネット関係もつながらず、外部との連絡は非常に制約されていました。 そして数日してやっとのことで常磐白鳥町の本家でもある親戚へ電話が繋がったので状況を伺ったところ、「一回目の地震で家本体がやや傾いた感じであったが、すぐに発生した同程度の2回目の大地震で、元に戻ったようだ」というような、なんとも不思議な感じの妙な話を聞いた。 更に、「今現在は断水しているが、広報車などの知らせで間もなく復旧はするらしい。 それにしても此処内陸部はそうでもないが、海岸部の小名浜地域などは津波で相当に被害をうけているらしい」と言う事を聞いた。 

 

何れにしても、親類一同は結果として人身、家屋ともに無事だったということで一安心はしました。 ただ、菩提寺である龍勝寺の墓地の墓石が横向きに変形しているから、直ぐにでも治す必要があるとも言われてしまいました。 そしてその後で、筆者は1ヶ月ほど過ぎてから田舎を訪れました。 いわき湯本インターを降りてから直ぐ近くの白鳥町の本家に向かおうとしたが先ず驚愕したのは、メイン道路が未だ地震による影響で路面が波打っていてマトモに走れなかったことです。 その後、お寺へ向かって墓石を修正してお参りした後は、沿岸部の様子を見に行ったが、小名浜港の地震と津波の状況は惨状を極めるものでした。

 

 

 

 

● いわき市沿岸部の影響は、

 

小名浜港の岸壁にある魚市場周辺は誠にひどい状態で、市場の前には大きな漁船が何隻も乗り上げていましたし、トンネルの中には小舟が横たわっていました。 又、川には乗用車が数台沈んでいて、畔には3、4台も車が折り重なっていましたね。 

埠頭地区を走る産業道路は亀裂や段差が随所にあり、車がまっすぐに走れないほど色々なものが散乱していました。 ここが道路だとは思えないほど泥や砂利が蓄積し、車線もまったく分かりません。 津波で流されたタイヤ類、破壊されたプレハブ小屋、常用車、トラックの横転している姿、港建設のための鋼管杭を積んだ巨大な台船など、港に関係する様々な物資や物が道路をふさいでいましたね。

 

そして、今では観光名所にもなっている小名浜港のにぎわい空間であるアクアマリンパークともいわれるアクアマリンふくしま、いわき・ら・ら・ミュウ、小名浜美食ホテル、小名浜潮目交流館等のいずれもが大きな被害を受けていました。

その後は、海岸沿いを散乱物を避けながら、中之作港、江名港、豊間の海岸など目を覆うような惨状を見ながら海岸通りをユックリと北上して豊間の灯台(塩屋崎灯台)を目指しましたが、進入路は完全に閉鎖されていました。 しかた無しに国道6号線でから湯本まで戻ってきましたが。



次回は大震災と湯本温泉、

 

 

2021年11月9日火曜日

福島県人気質は意外と保守的、

 




 

 

 

● 主観的ですが、福島県人気質は意外と保守的、

 
小生は現在は神奈川県在住ですが、実際は福島県いわき市湯本の出身です。 福島県は浜通りの東北の玄関口であり、県の形は東西に広く長い地域です。 従って、そのため気風や風土も極端に異なり、その傾向は主に三つの地域に分けられます。

先ず、現在NHKの大河ドラマでも知られる「会津地方」、阿武隈の清流が流れる盆地地域の「中通り」、それに太平洋に面し、今ではスッカリ御馴染みになった原発事故の「浜通り」であります。

 これらの三地域は意外と交流が少なく、其々が独自色を出しているようで、会津はご存知のようにテレビでは間もなく戊辰戦争の会津の役が始まろうとしております。 結果は散々な目にあって敗戦に到るが、この時の長州への恨みは硬く、現在でも山口の萩のは怨念の日々が続いていると言います。 

兎に角、会津の人々は不撓不屈の精神、男女問わず強力に頑固者とされていますし、歴史上止むを得ない面もあります。

 「中通り」は、やや閉鎖的な風土を残してはいるが、福島市や郡山、白河と東北・奥羽の往来路でもあり、新しい物好きで柔軟なタイプが多いようです。

又、いわきを中心とした「浜通り」は、太平洋、港町が多く、威勢のいい面もあり、陽気でエネルギッシュなタイプが多いようです。

 一般に福島県人に共通する気質といえば、保守的であろう。 関東や東京に近く、情報通信が頻繁な世の中でも、頑な(かたくな)といえるほど、方言などは昔と少しも変らず、変えようともしない。 これはこれで結構だとは思いますが。

 

  

● 主観的な福島男性の性格

 福島県、特に浜通りのいわき地方は同じ東北でも関東圏に近いせいか、人との付き合いは大事にする方で、約束はキチッと守りますが、余り口八丁ではありません。 女性には持てるタイプがおおいが、要領は必ずしも良くなく、賭け事も深入りはしない方でしょう。 

 地域的には浜通り、中通り、会津地方に別れていますが、地方によって若干性格は異なるようで、浜通りは季節柄かおっとり型、一方、歴史の漂う会津地方ならではで筋の通った事を押し通し、曲がった事が嫌いな強情っぱりが多いのでは。

 口下手でおとなしいが、人間関係を大切にし、めったなことでは人を裏切らない。 要領は良くないが、正義感が強く女性に優しい。 ギャンブル好きな面はあるが、のめり込んだりはしない。 会津は頑固だが、その他の地域は柔軟性がある。

 

  ● 福島女性の性格

 際立った美人はいないが、ぽっちゃりした女性らしい人が多く、郷土に誇りを持った意志の強いところもある。 女性らしいヤンワリ口調で、人との交流を大切にしながら、笑顔の優しい女性が多いようです。 こちらも浜通りから会津地方と気候、風土が異なるように、浜通りは濃い肌の優しげな女性で、人と同調しながら付いてゆくタイプ、一方、会津のほうは雪国らしく色白が多く、気性もキリッとして気品のある女性が多く、決まり事には厳しく対処する女性が多いのでは。 

 

 

 次回、いわき湯本と東北大震災、

2021年11月1日月曜日

いわき湯本での若き思い出、

 

 

 

● いわき湯本の中学時代の思い出

先ずはいわき湯本在住時の中学校時代の思い出です。 中学校時代を振り返りますと、もう余りにも懐かしいと思うくらい年月が過ぎたのだなぁと感じますが、何故か思い出すと湯水のように其の思い出が蘇ってくるのです。 あの頃は当然ながら携帯やスマホのようなものはなく、従って、家の中で中で遊ぶよりも外で遊んでいたほうがはるかに多く楽しかった気がします。

 

遊びの内容もいろんな遊びがありましたが、中でも激しかったのは巡査ごっこやドロケイ(泥棒警察ごっこ)に自分たちでルールを増やしたりして、泥だらけになるまで遊んでいたと思います。 運動も嫌いではなかったので、学校では運動部のバレー(ボール)部やバスケ部に入部して、部員と一緒に激しい練習をしたりと色々やっていましたね。

 

思い出で印象深いのは修学旅行もそうですが、運動会の思いでも強いですね。

普段別クラスでも運動会の時に一緒の組になったりするので普段取れないコミュニケーションが取れたりしますし、クラス全体が一致団結できる数少ない機会なので、余計に印象に残るのかもしれません。

 

激しかったのが騎馬戦や棒倒しでしたね。 騎馬戦は騎乗者を地面に叩きつけるまでやりますし、棒倒しなどは攻める側と守る側に別れてって、開始の笛の合図と同時に相手の棒に向かって突進し、激しく喧嘩(・・?)しながら相手の棒を水平にするか地面に叩き落とすという競技です。  何方も男性向きの激しい喧嘩腰の競技でしたから男は燃えましたよ。 最近は運動会にしろ何にしろ何事を行うにも安全第一でヨワヨワしくて宜しくないですね。

 

其れに、やはり燃えるのは最後の種目であるクラス別対抗リレーでしたね。 当時そこそこ足が速かったので走るのも好きでしたし、あのなんともいえない緊張感がたまらないですね。

たまに思い返してみると楽しい思い出しか出てきませんね、少し時間をつくって色々と思い返してみたいと思います。

 

 

 

 

 

● 高校生時分の通学時の体験談です

 

当時の田舎は、福島県いわき市常磐湯本で、あのいわき湯本温泉で有名なところです。 東京から常磐道で「いわき湯本」、JR常磐線では「ゆもと湯本」駅が交通の基点となってます。

 

我家は駅からは降りて、正面を左方向にあり、歩いても10分足らずの比較的交通の便はいいところです。 駅から右手方向には温泉街が広がっていて、近代的なホテルや和風の旅館があり、街中には公衆温泉浴場(立ち寄り湯)や足湯なども揃っていて、温泉の風情もあるところです。 そして、何よりもあの全国的に有名になった映画・「フラガール」でも御馴染みのところです。 勿論、あのスパリゾート・ハワイアンズのあるところです。

 

さて、小生が高校生の時は、常磐線は未だ蒸気機関車(S・L)の時代でした。 

通学は、常磐線の湯本の駅から下りで二つ目の「平」駅でした。 この駅から歩いて15分ほどの県立高校でした。 当時は通学専用と言っていい2両編成の列車があって、始発がこの湯本駅だったのです。 通常は勿論、通学定期を見せて改札口を通って汽車に乗るわけですが、朝寝坊の小生は何時もギリギリで、時には発車寸前になって慌てて改札口を通らないで、最後尾の所へ乗り込む始末でした。

 この回数も週に一回程度はあり、ある時など、汽車が発車して動き出してからから乗るときもありました。 (汽車は電車と違って発車時はゆっくり走り出し、走って乗り込むことも出来たのです) 時折、車掌に、「又、お前か・・!」と小言を言われもしたが、この車掌さんとはこんな因縁で、変な知り合いの間柄のもなったのです。

 ある時など、小生が走ってくるのを知って、汽車の発車を遅らせたこともあったようで、「お前のお陰で、2分遅れたぞ」などと、こんな事もありました。

何れにしても古き昔の、ヤンチャな時代の懐かしい思い出です。

 

  

 

● 福島県立磐城高校

 因みに、筆者が通学していた高校は、福島県立磐城高校といって福島県の浜通り、いわき市にある一応は有名進学高校です。 親父の時代は磐中(ばんちゅう)と言われていたように、旧制磐城中学校が前身であり、我等の頃は磐城高校(ばんこう、後にいわこう)になっていたが、校歴は100年以上の歴史を有する学校で、地元では評判の高校です。

 場所は、常磐線のいわき駅(旧平駅)から北西の方向で、徒歩で15分程度の高月台と言う地名の高台にあります。 進学率の高い進学校で、生徒の8から9割は大学へ進学します。 我等の頃は男子専門校であったが、近年では女子も受け入れるようになり、従って、丘を越えた向こう側に磐城女子高校があったが、磐城桜が丘高校と変名し現在は男女共学高校となっているようです。

 クラブ活動も盛んで、特に運動部は野球部は夏7回、春2回甲子園に出場し、御存知、1971年の夏の甲子園では準優勝に輝いた実績を持つ。 この他にもラグビー部が全国高校ラグビー大会に17回出場、サッカー部が全国高等学校サッカー選手権大会に5回出場している。

又、文化部では全日本吹奏楽コンクール、全日本合唱コンクール等が実績をあげています。

 

 

 

 ● 人気野球漫画の「ドカベン」は、夏の甲子園決勝で惜敗した「磐城高校」がモデル、

 因みに、人気漫画に水島真司の「ドカベン」は1971年度の夏の甲子園決勝で惜敗した磐城高校がモデルともいわれています。 野球マンガで人気のあった『ドカベン』に見る、かってのいわき市は炭鉱の町であり野球熱が盛んな地域でもあります。

 この「ドカベン」に出てくる、いわき東高校のモデルは磐城高校だといわれています。 進学校としても知られるこの県立磐城高校は、1971年夏の全国高校野球選手権でやはり「小さな大投手」といわれた165㎝の田村隆寿を擁して決勝まで勝ち上がり、神奈川の桐蔭学園高校に01で惜敗します。

 田村は全試合を1人で投げ抜き、初戦から連続完封。決勝戦の桐蔭学園高校との試合で0-0から7回裏に34イニング目での初失点を喫しました。 1失点だけの準優勝投手は、未だに長い歴史を誇る全国高校野球選手権の歴史のなかでも彼しかいません。

 

  

● 炭鉱があった磐城地方の野球熱が、当時の高校野球を盛り上げていた

 いわき地域の炭鉱の核になっていた「常磐炭鉱」が閉山を決めたのが、くしくも同じ年の1971年でした。 準優勝に終わった磐城高校の野球チームのパレードを、地元の人たちは大きな歓声で迎えたといいます。 すべての炭鉱が集結するのが1984年でしたが、中核になっていた常磐炭鉱の閉山は、街全体に将来への不安を掻き立てていました。

 今は昔の炭鉱全盛期には炭鉱企業が福利厚生としてスポーツに力を入れたことから、産炭地は野球熱を帯びていきました。 炭鉱企業の常磐炭礦は社会人野球チームがいくつもでき、後楽園で全国大会が行われた都市対抗野球でも存在感を放っていました。 そして、そこからプロ野球の世界に羽ばたいていった選手も数多くいました。

 昭和の高校野球イメージとしては、磐城高校はかつての男子校から今は共学校になりました。 近年では2020年の選抜高校野球大会に21世紀枠で出場予定でしたが、新型コロナの影響で同大会が中止になってしまいました。 代替大会として8月に開催された高校野球交流試合では、国士館高校と対戦して34で惜敗しました。

 

高校野球があっ「『ドカベ」があり、「ドカベン」があって高校野球があった、それが昭和から平成の時代だったのです。

 

   

 

次回は、福島県人気質とは、  


湯本温泉の震災の影響

    ● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を   さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に...