● 奈良仏教の徳一大師と新興仏教について、
「徳一大師」に関連する東北における奈良期から平安初期における仏僧についてですが、仏教界で大きく飛躍するのは奈良から平安にかけてで、特に、密教と言われる新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。
其れ以前までは、飛鳥、奈良時代の奈良仏教大和仏教)と言われる「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、奈良平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を持ち込んできて民衆に吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。
その時期、藤原徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その奈良・南都六宗の中心にいたのが彼であった。 当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。 最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。
徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる仏法理論闘争(三一権実諍論)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。
一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている。
『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。 初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重 』 としてある。
次回は、 「信仰の対象、原点の山が教えるもの、」






