2021年6月30日水曜日

徳一と新興仏教について、

 

 

 ● 奈良仏教の徳一大師と新興仏教について、

 「徳一大師」に関連する東北における奈良期から平安初期における仏僧についてですが、仏教界で大きく飛躍するのは奈良から平安にかけてで、特に、密教と言われる新興宗教である「真言宗」と「天台宗」が、空海と最澄という偉大な宗教家によって新風が吹き込まれるのである。 

 

其れ以前までは、飛鳥、奈良時代の奈良仏教大和仏教)と言われる「南都六宗」(法相宗・抑舎宗・三論宗・成実宗・律宗・華厳宗)が主流であったが、奈良平城から平安に京が移ると同時に、空海と最澄が中国から新しい仏法を持ち込んできて民衆に吹き込み、これが平安二宗と呼ばれるものであった。

 

その時期、藤原徳一というこれまた偉大な宗教家がいたということは余り意識されていないが、その奈良・南都六宗の中心にいたのが彼であった。 当時の新興地は陸奥の国・東北地方だが、その東北地方においては、最澄は徳一に抑えられて全く手がだせなかったといわれる。 最澄は、唐の留学から帰り天台宗を唱えて、古来の奈良仏教を攻撃したとされている。 

 

徳一は、その最澄に反撃を加えて五カ年間にわたる仏法理論闘争(三一権実諍論)を行い、その結果において最澄は徳一(法相宗)に勝てなかったとされている。 最澄は、徳一を折伏(しゃくふく・悪法をくじき、屈服させること)し、東北に天台宗を広めようとして、まずは関東に乗り込んできたのだが、徳一に遮られて成功しなかったという。

 

一方、空海は、奈良仏教の代表ともいうべき徳一とは論争をせず、むしろ尊敬の念を持って付き合おうとしたようである。 会津において磐梯恵日寺の建立時、空海は徳一に手紙を書いている。 

 

『 聞くなら徳一菩薩は「戒」珠玉の如く、「智」海弘澄たり、汚れを払って京を離れ、錫(しゃく)を振って東に往く。 初めて寺を建立し、衆生の耳目を開示し、大いに法螺を吹いて万類の仏種を発揮す。ああ世尊の慈月、水あれば影現ず、菩薩の同事、いづれの趣にか到らざらん。珍重珍重 』 としてある。

 

  

 次回は、 「信仰の対象、原点の山が教えるもの、」

 


 

2021年6月28日月曜日

徳一が創建した有名寺院、

 


● 「徳一」が創建した有名寺院については、

因みに筑波山については、『筑波詣』の記録に「本尊観世音坂東の札所なり。大堂巍々雲貫き、結構美々たる荘厳は、中々言語に絶したり」とある。 又、『筑波山縁起』によれば「近国他国より参詣の輩、袖を連ね裾をからげ、昼夜の堺も無く、山の繁昌時を得たる有様であった」と記されている。 何れも大繁盛として記録されている。筑波山・中禅寺は、筑波神社との神仏習合の地であった。


そして、磐梯山・恵日寺(慧日寺)は会津地方最古の寺で、磐梯山の大噴火の翌年(807年)に開いたとされている。  磐梯恵日寺(えにちじ)は、現在の磐梯町の町域ほとんど全部をその境内とするほど広大な敷地を有し興隆をきわめたという。

無論、藤原一族の援助もこれあり、一時は寺僧300人、僧兵6000人、堂塔伽藍は100を超え、子院3800坊を数えたという。  恐ろしい天変地異の後なので、農民達はあっさり入信したといわれ、会津地方に仏教文化が大きく花が開いた。  今でも厚い信仰と優れた仏教遺産が残っている。  広大な寺跡は昭和45年に国の史跡に指定され、将来に向けて復元整備が図られようとしている。 慧日寺は、磐梯神社との神仏習合の地でもある。



そして、地元・湯本の長谷寺は・・?、「宇治山・長谷寺」は湯の岳をいただく裾野のいわき市は湯本にある。  正確には、いわき市上湯長谷堀の内地区で、湯本温泉地から歩いてもすぐのところである。

そして、其の地は旧我が家の近くでお有り、私が通っていた湯本第一小学校の直ぐ、西側に位置していて我家からも5、 600メートルのところにあるのです。 そんな事も有って、子供の頃はグループになって良く遊ぶ場所でもあったのです。

其の長谷寺の現状は、上記の二院ほどの華やかな歴史といのは語り継がれてはいないが、今でも地元の檀家さんを多く抱えて寺院経営は順調に行なっているようです。 徳一が、蝦夷開発の基地とし、隣国の常陸にも近く、藤原家の後押しがされたと思しき長谷寺は、往時は壮大無比の大寺院を想定されるが、今のところ、そのような痕跡はまったく無いのか、或いは発見されてはいないのである。

だが、霊峰・湯の岳を仰ぎ、霊験あらたかな温泉神社を配し、道後温泉、有馬温泉とともに三大古湯といわれる、サハコの湯の古湯に漬かれば良しとし、これも徳一の思し召しと思えば良しとしよう。

陸奥の国・「いわき湯本」が大きく拓けるのは平安中期以降の頃で、藤原家の御人々や源家の武人が、勿来の関で歌を詠み、サハコの湯に漬かって風雅に過ごしたとされる。 又、その後も戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として 文人芸人の来遊が絶えなかったという。


 次回は 「徳一と新興仏教について、」

2021年6月27日日曜日

高僧・徳一は「藤原徳一」

 

 

 

● 奈良期の高僧・徳一は「藤原徳一」

 ここまで、だいぶ話が飛び飛びになったが、 徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 

しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したと思われる。

 

石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。  常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 つまりは、早くから開けていた・・というより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。 ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていた。

 

 

九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが高僧「徳一」であり、道具は武器でなく、文化であり宗教である仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。

 

仏教の普及が、古代からの信仰と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。  「藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出地とされる陸奥の南端では西の街道の会津地方であり、東の街道が「石城」であったのである。

 

徳一は、筑波山に中禅寺を、磐梯山に恵日寺を、そして「石城・いわき」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。  徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城地方には湯の岳を開いたのである。 そして、領民のために、大和の三輪山を遷宮して「三函神社」(現、温泉神社)を造らせたのかもしれない。

 

 

  次回は、「いわき湯本の長谷寺と藤原徳一」

 

 

 

 

2021年6月25日金曜日

都の朝廷執権・藤原氏の登場、

 

都の朝廷執権・藤原氏の登場、

  

● 都の朝廷執権・藤原氏の登場、

 

古の奈良の三輪山、大和の王国、そして大和朝廷の来歴を述べてきたが、ここで、大和朝廷の時代になって「藤原氏」が登場してくるのです・・!。 これらの藤原氏は大和朝廷及び天皇家を擁護し、画策し、最終的な神統譜である紀記(古事記、日本書紀)を製作したのが「藤原氏」であるといわれる。  製作の目的は「天皇制」という新秩序のためであり、新しい律令的秩序であり、藤原氏自身のためのものであった。 大和王権とされる旧秩序、旧勢力、旧豪族を打破し、同時に大和勢力、強いては「中臣=藤原氏」の勢力を拡張することでもあった。

 

常陸の国に「鹿島神宮」(茨城県鹿嶋市宮中:常陸国一の宮)が壮大に鎮座している。  香取神宮と並ぶ東国の大社であり、霞ヶ浦を中心とする大水郷地帯の歴史的中心的な神宮である。 其処で藤原氏の登場ですが、藤原氏の祖・藤原鎌足(中臣・なかとみのかまたり)は、この鹿島の地で生まれたと伝えられ、やがて大和の都に「春日大社」を分社遷宮し創祀したといわれる。 この地鹿島は中臣(藤原)氏本流の地で、海人族であったとも言われる。

 

鹿島神宮は、「常陸国風土記」や「延喜式神名帳」などに多くの記載があり、武甕槌命(タケミカズチ)とその子神の天足別(アマタラシワケ)命を祭神としている。 武甕槌命は通常、記紀では迦具土神(カグツチノカミ)の血から生まれた神とされるが、藤原氏が奉斎する鹿島神宮の祭神・武甕槌命は、元より天孫降臨・天照大神の一族とされ、出雲の国の「国譲り」では、かの諏訪大社の大神・建御名方神(タケミナカタ)と相争い、これが日本における「大相撲」の起源ともされているのは有名な話である。

 

藤原鎌足は飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖にあたる。 大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍するのは歴史上でも有名である。 その子「藤原不比等」(ふじわらのふひと)が実質的な「藤原姓」を名乗り、藤原氏の祖と言っても良い。 その孫に藤原仲麻呂がいて、仲麻呂の第11子が「徳一」とされている。 

つまり、徳一は偉大なる不比等の曾孫にあたるのである。

 

 

 次回は、 高僧・徳一は「藤原徳一」


纒向遺跡は日本最初の都、都市、

 

 

● 纒向遺跡は日本最初の都、都市、

 

この纒向遺跡は、奈良盆地南東部の三輪山麓に位置し、既に都市計画がされていた痕跡と考えられる遺構が処々方々で認められ、水を得るための巨大な運河などの大土木工事なども行われていて、他の一般的な集落とは異なる点が多く、日本最初の「都市」、あるいは初期ヤマト政権最初の「都宮」とも目され、既に政治都市としての形が出来ていたともいわれる。 

 

又、祭祀用具を収めた穴が30数基や祭殿、祭祀用仮設建物などのも見受けられ、東海地方から北陸・近畿・阿讃(四国)、瀬戸内・吉備・出雲ならびに北部九州にいたる各地の土器が搬入されていることも確認できるという。 所謂、この地方は3世紀からそれ以前には既に「卑弥呼」を中心とする中央集中の国家体制が出来つつあったか、はたまた既に出来上がっていたとする見方である。

「纒向遺跡」は、その大きさからも七世紀末の藤原宮にも匹敵する巨大な遺跡であり、これこそが「卑弥呼」以降の「大和朝廷」の発祥の地にほかならないともいわれる。

 

纒向遺跡には、箸墓古墳やその周辺を含めて20数基地の古墳が存在するという。 

このうち現状から前方後円墳と判別できるものとして、箸墓古墳、纒向石塚古墳・矢塚古墳・勝山古墳・東田大塚古墳・ホケノ山古墳があり、これらの古墳を総称して「纒向古墳群」といっている。 近年の、この地区の考古学研究の専門家たちの発表によれば、纒向古墳群の出土物の調査等から建造時期は三世紀半ばと推定され、これは卑弥呼が活躍した時期と一致するとの見方で、「邪馬台国・近畿説」を支持する論者たちは意気盛んなのである。

「纒向遺跡」は三輪山の麓、桜井線の巻向駅の至近に存在している。

 

大和王権、更には大和朝廷の発祥の地とされる奈良盆地南東部に所在する大三輪社(三輪神社)は、大物主大神を祀り、三輪山を神体(神体山)として成立したのであった。 勿論、大和王権、更には大和朝廷はこの三輪山を尊崇し、崇めたのであった。

大三輪社は現在でも本殿をもたず、拝殿から三輪山を神体として仰ぎみるという古神道(原始神道)の形態を残しているのである。 そして現在の三輪山山麓には、日本最古の神社といわれる大神神社をはじめ長谷寺、談山神社などの由緒ある社寺も数多く見られ、宗教的にも歴史が深くしかも古代信仰の形体を知る上でも重要な地区となっている。

 

さて、話を元に戻しましょう。

 

次回は 「藤原氏の登場、」

 

2021年6月24日木曜日

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡と箸墓(はしはか)古墳

  

ところで、近年の新聞報道やニュースによると、 『 奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡で、「女王卑弥呼の宮殿跡」らしき遺跡が発見され、更に、この遺跡より大量のモモの種や各種遺物が見つかり、これらの遺物から判断するに、全て各地から食材や物が集まって神饌(神に供える飲食物)として供えられた遺跡物資である可能性が高いといわれる。 これによって纒向遺跡が単なる農村ではなく都市的な場所であったことが明らかにされ、更に、この地が卑弥呼(ヒミコ)が在住した「邪馬台国」の最有力な候補地ではないか。 』、との報道があった。

 

更に、纒向遺跡の周辺には、これも近頃ニュースになった箸墓古墳(はしはかこふん;宮内庁名は倭迹迹日百襲姫命・ヤマトトトヒモモソヒメノミコトの墓としている)も有り、この古墳は、この辺りでも最古級と考えられていて三世紀半ば過ぎの大型の前方後円墳で、建造時期や大きさなどから日本国を形作った「卑弥呼」の墓ではないかとする見方もある。 因みに、卑弥呼は邪馬台国の女王とされ、その生涯年代は西暦175年頃? - 248年頃(在位188年頃 - 248年頃)とされている。 

  元より桜井市周辺は、縄文時代から弥生時代のかけて土器の欠片(かけら)などが一般の野原や畑などでも掘り出されるなど歴史の深さと事実を窺わせる土地柄なのである。 

この地域は、神武天皇御陵(橿原神宮)や崇神天皇、景行天皇のものとされる大王陵など、弥生時代や古墳時代にみられる「前方後円墳」などの古墳が多く今日まで残されている。 そのことから周辺地域はヤマト王権(大和朝廷につながる王朝;天皇制の以前の王たち)の中心的な地域であったとされている。 それ以前には三輪王権(大和の豪族集団)とも言われるようである。

 

「邪馬台国」の所在地については昔から近畿説と九州説があるが、近畿説を採用した場合、その根拠となるのが纒向遺跡であり、当時の畿内地方にあって小国連合の中枢となる地であったとして注目されている。

 

 次回は、「纒向遺跡は日本最初の都、都市、」

2021年6月22日火曜日

湯ノ岳と奈良・大和の三輪山、

 

 

● 湯ノ岳と奈良・大和の三輪山、


 
奈良・桜井市の霊山・三輪山

三函(サハコ)の地名は、今も湯本の町内に住所名として存在するが、「長谷寺」の所在地は上湯長谷である。 読みは「かみゆはせ」ではなく、「かみゆながや」と称している。

「湯長谷(ゆながや)」の「長谷(ながや)」は、当然、長谷寺の「長谷(はせ)」に由来する。 因みに、隣地に「下湯長谷」もある、湯の岳に向かって近いの方、つまり上の方が長谷寺の在る上湯長谷であり、遠く下の方が下湯長谷地区である。 

 

次に、先に温泉神社の由来については先に触れたが、 奈良期の7世紀頃、神体山である「湯の岳」より降臨(神仏などの天下ること)して里宮として遷座したもので、後に、大和国・三輪神社(現、大神神社:現在奈良県桜井三輪)の主神を勧請し、祭祀されたとものいわれる。

 

三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルのなだらかな形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と類似形をしている。 そして太古より神宿る山で、そのものが神体であり、原始信仰の対象であったとされるのも酷似しているのである。

 

奈良盆地の大和国は、奈良期の仏教伝来後、最も盛んに根本仏教が栄えたところであることは周知である。  奈良時代の仏教が波及するようになって間もなく、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)という神道と仏教を両立させるための信仰行為が成立する。 つまり、神仏習合(神仏混交、神と仏を同体と見て一緒に祀る)とも言われる。

 

仏教が国家の宗教となったのは奈良時代で、東大寺を建立した聖武天皇の時からであったが、実は天皇というのは神道の神様を祀る中心的立場にあり、100%舶来の仏教とは行かなかったようである。 つまり、仏教は、すんなりと日本人が受け入れたわけではなく、紆余曲折があったことは良く知られている。 

そこで、神様と仏様が歩み寄る必要が出てきて、歩み寄ったのは神様の方であり、因みに、その一番手が八幡神(宇佐神宮・応神天皇、大分県宇佐市)だったとされている。

 

日本において神仏習合思想に基づいて、神社を実質的に運営する仏教寺院が設けられ、この寺院を「神宮寺」と称した。 そこで三輪神社の神宮寺は、大神寺、通称、大御輪寺であった。 (現在は、神仏分離で三輪若宮神社になっているらしい)この寺院には天平国宝の十一面観音が祀ってある、観音信仰の菩薩である。

 

観音信仰の中心は「長谷寺」であるが、その根本御堂が三輪神社・三輪山の東に位置する大和・初瀬(泊瀬)川の「長谷寺」であることは周知である。  初瀬川は聖なる川といわれ、初瀬が生じて「はつせ」・「はせ」・「長谷」になったとされる。 つまり、初瀬川は長谷川でもある。

 

三輪山の神に仕える巫女、彼女たちが禊ぎをするのが初瀬川であり、長谷寺の興りはこの三輪山と初瀬川であるとも想像できるのである。  三輪山のご神体が、初瀬川で生まれた「龍神」であり、龍神信仰と結びついたのが長谷観音信仰の根本であり、御本尊は「十一面観音」であった。

 

 

次回は、 「湯本温泉と奈良の都との関連」

2021年6月21日月曜日

「藤原徳一大師と湯の岳」

 

●  「藤原徳一大師と湯の岳」



  

「三函の三学」とは戒・定・慧(かい・じょう・え)のことで、仏教の実践の三大綱要で戒学・定学・慧学の仏道修行の根本を三学をいう。 つまり善を修め悪を防ぐ戒律と、精神を統一する禅定と、真理を悟る智慧をいう。

湯の岳の中腹には、その言い伝えの通りの観音堂があり、この観音堂こそが徳一の根本道場の一つだったことを物語っているし、この山全体が徳一観音信仰の霊場だったようにでもあるのです。 

 

現在は、湯ノ岳平和観音として、現世の救い求めての祈りの観音様であるが、其の観音様の直ぐ横には規模の小さな仏様の坐像が祭られています。 この観音様が往時の藤原徳一の修行の場所であったかどうかは定かではありませんが、何と、以前は「藤原慈母観音」とも呼ばれていたともされていますし、観音像の直ぐ横の仏様は如何にも徳一が修行を積んでいる姿にも見えなくもないのです。

 

気が付けば、この辺りの行政上の町名は「常磐藤原町」といって、藤原というのは各部所の名前にもなっています。 そこで、無理に藤原徳一の流れを組むとは申しませんが、通称の「藤」の付く概ねの名前や地名というのは藤原氏の流れを組んでいるともいわれているようです。

 

其の湯ノ岳には湯の岳ロードというのが有って実は頂上にまで達していますが、入り口は常磐道のいわき湯本ICの入り口手前で車でも直ぐゆけるところです。 其の中腹に子供も遊べる丸山公園というのがありますが、其のすぐ上に観音堂があります。 高さが約12mあり、麓からも白い観音様がよく見えます。

 

此方の湯の岳の宇治山・長谷寺、(観音堂)は、徳一大師開祖の会津の磐梯山・恵日寺、筑波山の中禅寺などと同じように、徳一開創の観音寺とする伝えは、きわめて真実味があり由緒あるものといえそうです。

 

次回は、  「湯ノ岳と奈良・大和の三輪山、」

 

2021年6月20日日曜日

いわき湯本の「長谷寺と藤原徳一」




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● いわき湯本の「長谷寺と藤原徳一」






















高僧・「藤原徳一」と長谷寺についてですが、 湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」があります。 今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。


長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文が記されていて、その中に『奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也』とあって、徳一建立が明記されている。 


この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって『神明鏡』(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記で、時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている)と比較すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年~809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる格式のある寺である。 つまりは、中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。


徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 それは、正面に拝謁できる、現、湯本の町の郊外に聳える「湯の岳」を仰ぎ見たことに他ならないといわれる。 

徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。 

湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった。 標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。 古代、湯嶽(湯岳)を三箱(さばこ)山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる湯の岳を仰ぎ見て、「三学の箱(函)」を納入したことから、この地名が「三函」と名付けたといわれる伝説もある。

中世には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、それに因んで山麓地域は「三函」という名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称されていたという。


  次回は、 「 藤原徳一と湯の岳、」


石城地方と文化の普及、

 

● 石城地方と文化の普及、



然しながら石城地方は、元々は古くからは関東圏に内包されていて、東北地方ではもっとも早く開発され、大和朝廷に組み入れられた地域であることは確かであろう。 弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると石城地方が、ある時期までは東北地方でもっとも豊かであったらしい。 季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


 方では、東北南部は蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(奈良・平城京)へ向かおうとした地域であったともされている。 だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断されるという動乱も起きている。 石城地方は、それらの旧態勢力と新規勢力の抑えの拠点であり、この地に石城軍団が置かれていて、石城の大領(たいりょう:平安初期における郡の長官のこと・陸奥国磐城郡の大領)に磐城雄公が配され、天皇から從五位下という官位まで受けている、という記録もあるようである。


 ところで、大和朝廷の東北進出は、はじめは武力による力が主であったが、経営的には文化の両面からも行なわれたであろうといわれ、その文化の面では特に「宗教」(この場合は仏教)の普及に力を入れたのではないかと思われるのである。


 初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の詔が出されるまでに到る。 後に仏教の布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は仏教教化の重要な拠点であったのではないかとも言われ、その中の一人に「徳一」(名門。藤原家の徳一)という名僧がいたことは史実でも明らかにされている。


 「徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の高僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男とも伝えられている。 彼は初めのうちは東大寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下ったとされている。


新興宗教(平安初期に大陸から導入した密教=インドの仏教のこと)の空海とも相容れず、最澄との間では一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)を展開したことは有名である。 


この間、陸奥国会津、常陸国筑波山など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。


 次回は、 いわき湯本の「長谷寺と藤原徳一」




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2021年6月17日木曜日

いわき湯本の石城地方とは

 

  ● いわき湯本の石城地方とは

 


 

 





「石城地方」、つまり福島県の浜通り地区では、主に現在のいわき市に当たりますが、旧名は石城(いしき、又はいわき)とよんでいた。 例えば、町名や村名では石城郡◯◯町で湯本の場合は旧町名は石城郡湯本町だったのです。 

古代の石城地方は歴史的には平安時代の初期にころまでは、所謂、奥州と北関東との境界線上にでもあり、蝦夷(えみし;東北地方で大きな勢力を持っていたといわれて、言葉や風習も違って,朝廷から異民族と見られていた)の勢力と大和朝廷の勢力と拮抗していた地域であったとされています、

 

つまり、小生の実家は昭和の初期までの呼称は福島県石城郡湯本町であった。 今は、平仮名の「いわき市」になっているが、本来の「石城」は「いしき」ではなく「いわき」である。

この「石城地方」について更に付け加えたい。

 

「いわき」は、古事記、日本書紀、風土記に表れる古来の和字は「伊波岐」と記されているらしい。 古代から中世にかけて「いわき」は、磐城とか岩城とも書くし、岩木とも書くことがあったらしいが、本来は石城である。 

「続日本紀」(平安初期の歴史書)には陸奥国石城郡と書かれているし、それがら明治期までは石城郡の各地は町村の合併を繰り返し、市などに昇格した際には郡制が亡くなっているが、我が湯本町も南隣の岩崎村と合併して「常磐市」が誕生している。 「常磐」(じょうばん;の名称は、元は常磐炭礦や常磐線からの由来として、これらは炭鉱のエリアや常磐沿線の旧国名、つまり常陸国(茨城県)と磐城国に由来する 

 

そして、昭和の大合併で40年代には周辺五市の大合併で「いわき市」が誕生し、この地域の石城は消滅している。 因みに、合併当時のいわき市は面積的には日本一の広さであったとされていますが、筆者自身はこの平仮名文字の「いわき」という書き方は大いに納得していない。 つまり、昭和中期の頃まで福島県石城郡であったのです。

 

 

さて、古代、大和朝廷の北への開拓は「日本武尊」の東征では相模国から安房国、常陸国あたりの道筋とされているが、その後も石城から次第次第に北に向うのである。 古代・石城地方は、蝦夷(えみし)の勢力と大和朝廷の勢力が拮抗していた地域であり、やがて、東征後は大和朝廷の傘下に治まり防衛前線基地となったとされてる。 所謂、大石を並べて城塞化したのが「石城」であり、古代の築城施設であった名残りが石城となったのだろう、と唱える先生方もいるようである。

 

 次回は 「石城地方と文化の普及、」

2021年6月15日火曜日

元宮、奈良・三輪大社の風景、

 


奈良・三輪山と三輪大社(大神神社)

 

● 元宮、奈良・三輪大社の風景、

 

明治以降も江戸期のこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められていた。 さすがに現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山出来るようになったが、登山を希望する場合は、社務所にて許可を得、入山届けをして「300円」という入山料を納めなければならないという。 

そして参拝証である白いタスキを受け取り御祓いを済ませ、道中では、このタスキを外すことは禁止されているという。 

 

通例、2時間ほどで上、下山出来るが、今でも3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。 また山中にては、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止されているという。

この神域には今でも数多くの巨石遺構、祭祀遺跡も散在するが、これらの遺跡、史跡群に対しても原則として許可なしに撮影も出来ない。 さらに山内の一木一草一石に至るまで神宿るものとして持ち出しは禁止されているし、それに斧や刃物の類のものは持入れすることは許されていない。 一般には入山せずに参拝することが多く、拝殿、遥拝所から三輪山を仰ぎ拝むといった手法をとっている。

 

又、正月の初詣ともなると、至近のJR桜井線の三輪駅は駅構内まで行列が続いていて、駅に降りたら其処が参拝の行列の最後であったともいう。 ひどい時なんかは電車の中まで参拝客の行列が続いていて、電車は参拝客が全部降りきってしまうまで、1時間も駅で止まっていたこともあったという。

 

 

三輪山、即ち大神神社は、さすがに我が湯の岳、温泉神社の本社聖域であることから、尊厳と格式か今でも存在することは、ただ、感服するのみである。 三輪地方は、御存じ「三輪そうめん」の発祥地、故郷でもあった。

 

いわき湯本の「温泉神社」や「湯の岳」には、このような深い歴史が潜んでいたことに改めて驚きであったが、更に深い因縁が含まれていたのである。 しかし、現在の湯の岳は残念というか、痕跡こそ残って入るが御神体としての山という様子は殆んど見当たらず、湯の岳ロードという一本の道が頂上付近達している観光としての山になっているのです。

 

 

ところで、三輪地方といえばコマーシャルなどでも御馴染みの「三輪そうめん」の名産地、特産地としても有名なところですね。 古歌にも、「やまとの国はまほろば(素晴らしい場所)」と詠まれているとおりですし、大和の国は、現在の奈良県桜井市あたります。

古代より人々を見守ってきた神山・三輪山をご神体として、お祀りしている日本最古の神社・大神神社を中心に発展してきた場所でもありますが、6世紀に入り仏教の伝来(538年)とともにやってきたのがソーメン、素麺とされ、この辺りの清らかな水と気候にもマッチした三輪の名産品となったといわれています。

 

 

次回は 「石城地方」

 

 

温泉神社の元宮は奈良の三輪大社、

 


 

● 温泉神社の元宮は奈良の三輪大社、

 

因みに、温泉神社の元宮、本社があるのは大和の国の「三輪大社」であるとされている。 現在は大神神社と称されていて、読みは「おおみわじんじゃ」・三輪明神とも呼ばれている。 

奈良県桜井市にある由緒ある神社で大和国・一宮であり、大物主神(おおものぬしのかみ:大国主命の同義とも云われる)を祀っている。  日本神話に記されている創建の縁起などから、出雲系の神社で「日本最古の神社」を称し、少なくとも大和国においては最も古い神社の一つであると考えられている。

 

現在でも神殿、本殿は置かれてなく、拝殿から奥にある三ツ鳥居を通して御神体である「三輪山」を拝するという原始形態の神祀りの様式をとっている。 神意は、国造りの神様として農業、工業、商業すべての産業開発、 方位除、治病、造酒、製薬、禁厭、交通、航海、縁結びなど、 世の中の幸福を増進することを計られた人間生活を営むための総守護神として 尊崇されている。 その神威は、全国に亘り、古くは朝廷の鎮護として尊崇されていた。

 

 

後背に控える三輪山は縄文時代、あるいは弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。  特に、古墳期(大和朝廷が誕生し日本国として統一された時期で弥生以降、飛鳥以前の時代)にはいると山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた形跡があり、そのことから、この一帯を中心として日本列島を代表する政治的勢力、つまり、ヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したものと考えられているという。

 

この三輪山は、奈良盆地をめぐる山でも高さ467メートルのなだらかな形の整った円錐形の山であり、いわき湯本の「湯の岳」と酷似しているのである。  三輪山は太古の昔より神宿る山とされ、山容そのものが御神体であるとの考えから、常人などは足を踏み入れることの出来ない聖域とされた。  所謂、禁足(きんそく)の山で、江戸時代には幕府より厳しい政令が設けられ、神社の「山札」がないと入山が出来なかったという。

 

 次回は 「● 本社、奈良・三輪大社の風景、」

2021年6月11日金曜日

湯本温泉の湯の岳と温泉神社

 

● いわき湯本の湯の岳と温泉神社

 

我が故郷の「湯の岳と温泉神社」について、 我が古巣は湯本駅を降りると左方向に在するが、 温泉神社の方向はその逆で、常磐線の「湯本駅」から御幸山を正面に右方向へ、天王崎を過ぎると間もなくT字路になるが左に石柱で造られた鳥居が在り、鳥居を潜って石段を上ると立派な社殿が現れる。 

ここが「温泉神社」である。  少年時代には良くこの辺りで遊んだものであるし、何といってもこの辺りは中学校(湯本第一中学校)への通学途上路でもあった。 

 

五月の初頭に行われる例大祭の「さつきまつり」は、地域住民の最大の楽しみであった。 現状は定かでないが、当時は温泉に感謝するため、各旅館が温泉を樽に汲み入れ神前に奉納する「神社献湯式」が本殿で行なわれますし、大小の神輿や長持(衣服・調度などを入れて保管したり運搬したりする。 長方形で蓋のある大形の箱で、江戸時代以降さかんに使われもので、神事・婚礼などで長持唄を唄いながらゆったり運ぶ)、その他の祭事で大変賑わったのも記憶している。

 

 温泉神社は、旧来の地名に因んで佐波古神社(現在は湯本町三函)とも称し、社史にも伝わる。 その「神幸由来記」などの古文書によれば、神代の昔、『湯の岳』が御神体山であり信仰の山であって、白鳳年間(奈良期の7世紀頃)、この「湯の岳」より降臨(神仏などが天降ること)して里宮とし、遷座されたと記されている。

 

言伝えや伝説によると、日本武尊が東征のため当地に進駐の折、大和国・三輪大社(現在奈良県桜井三輪)の主神・大物主神(オオモノヌシノカミ・大巳貴命・大国主命)を勧請、分社し、少彦名命(スクナヒコノミコト、神話時代の国造りの神:大国主神とともに全国を回って国土を開拓した神とされている。  医薬の神)と共に合祀されて、以来二神が郷民によって祀れたという。

 

祭神は地下資源の神、医薬を司る神で湯本町の鎮守様として広く崇敬をあつめている。 その「湯の岳」は、我等町民の山であり、常磐道のいわき湯本ICのすぐ横に聳える山で、稜線は弧を描いたなだらかな緑豊かなの山である。 

我等の小学校、中学校の校歌にも詠われ、小生が小学校56年の時はクラスが五組であったので「ゴクミ・593」、つまり標高が593mであったのを今でも記憶に有り、印象に残っている。

 

次回は、 「温泉神社の元宮は奈良の三輪大社、」

2021年6月7日月曜日

戦後の昭和天皇の御巡幸

 

● 戦後の昭和天皇の御巡幸

 

終戦の年の3月には東京大空襲が米軍のB29によって行なわれ、10万人の軍属、一般人が亡くなった。 この時期に前後していわき湯本近辺では近くの日立や郡山方面も空襲にあったらしいが、幸いな事にここ地元の常磐炭鉱や品川白煉瓦の工場は被害にはあわなかった。 この時、日立製作所がある日立では米軍の洋上よりの艦砲射撃があり、ほぼ50km離れている当地の湯本にまで砲撃の音が響いてきたという。

 

そして、昭和20815日に終戦を迎える。

昭和天皇は終戦の敗戦の衝撃と混乱との中、敗戦の翌年から神奈川県を皮切りに全国へ足を運んだのである、即ち、「戦後巡幸の旅」である。 其の目的は、戦後の混乱する日本国内を天皇が直接視察し、復興に携わる国民を「激励」し、戦災者や戦没者遺族などを「慰問」するためとされたのである。

 

この巡幸は、あくまでも昭和天皇自身が望んだものであったという。 勿論、当時の日本国は米国の占領下にあり、米占領軍も天皇の復興への激励はむしろ望むところであり、国民の天皇観の「民主主義化」にも繋がると考えて支援したという。 このようにして一生懸命に国民の言葉や意見を聴き、たどたどしく話しかけようとする昭和天皇の姿を、多くの国民は熱狂的に歓迎したのである。 

 

東北巡幸を前に、真夏の酷暑による国民の労苦を思われた昭和天皇のお言葉は各地方官庁に伝えられているという。 東北巡幸を前に、洋服の新調を提案する侍従に対して天皇はこうお答えになり提案を斥けられたという。 「アメリカは勝ったんだし、金持ちなんだから、いい物を着たって当たり前だが、日本は敗けて、今みんな着る物も無くてこまっているじゃあないか。洋服なんかつくる気になれない」と、

 

 

ただ、天皇の姿を見せられて、昭和天皇と自分たちは軍や官僚によって「だまされた」のだという見方や認識も国民の中にはあり、天皇や国民の戦争責任認識を曖昧にしていったという意見もあったようだ。 この一つの事例として関西巡行の際に京都大学をご訪問されたとき、一部の学生が「巡行反対」などのビラや奇声を上げ、当局により「不敬」の罪で逮捕されたという事件である。

 

次回は 「● 戦後の昭和天皇の御巡幸の意義」



2021年6月6日日曜日

昭和天皇の東北巡幸、


● 昭和天皇の東北巡幸、

 

ところで、昭和天皇は全国巡行を実施に当って、比較的早い時期の八月に東北巡幸が行われた。 当初の宮内庁は天皇陛下の静養のために暑さを避けるために九月に入って涼しくなってから巡幸が行われる予定であったが、天皇御自らが東北巡幸の早期実現を熱望されたという。

 

この時期には東北地方を水害が襲い、そのために延期もやむなしと言われていたこところ、昭和天皇はむしろ水害地を見舞いたいとの熱意を示されたそうです。 そして昭和228月に福島県、宮城県、岩手県など東北6県を順に巡り、帰途には再度、二度目の福島県にお立ち寄りになっている。

 

 

福島巡幸では摂氏40度にもなる常磐炭鉱の坑内切羽(せっぱ、坑道の先端部;切羽詰る)まで御自ら足を運ばれ坑夫を激励して回られた。 勿論、天皇の心の中には鉱工業の発展が戦争直後の日本の復興には欠かせないとお考えになっていたからである。

其の時の巡幸の際に、常磐炭坑をご視察される予定になっていた昭和天皇は、石炭の生産状況について担当大臣に説明をお求めになり、炭坑労働者の福利厚生に注意を払うように促されたという。

 

天皇のお言葉として、「この夏は東北を廻らねばならぬ」、そして、「国民はみな汗を流して働いている。自分のからだは心配に及ばない」、更に、「地方の人達にはなるべく自由に迎えるように、更に、学童たちもどうしてもというならば日陰をえらぶように」(昭和22年夏) と仰せになられた。 このように酷暑が去ってから東北巡幸を行うように進言した側近達の言葉をしりぞけられた。

 

 

次回、 ● 戦後の昭和天皇の御巡幸


湯本温泉の震災の影響

    ● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を   さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に...