2021年11月24日水曜日

湯本温泉の震災の影響

 


 




● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を

 
さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に宿泊の翌日は小名浜港などに行って、そこの埠頭の水族館や物産センターで魚介類を購入され、自宅に戻るという旅行のパターンが多かったのが、いわき湯本温泉でした。

 


そして震災による被害で湯本の温泉街や町自体は海岸部に比べると直接的には大した被害ではなかったが、それでも地震の影響で水道、ガス、電気などのライフラインが一時停止して、各旅館では建物が一部損壊、飲食店や一般住宅にも被害が及びました。 又、肝心な温泉水の配管の亀裂によって温泉の配湯が止まるなど混乱は大きいものでした。 

 


、その後は原発事故による住民の避難、観光客の激減、震災関連の作業員の宿泊と撤収など、温泉街の様子を大きく変えるものでした。 震災によって旅館・ホテルに直接被害があっただけでなく、原発事故による住民の避難は営業そのものを困難にしました。 さらに、営業の再開にめどがついた後も観光客が戻らない状況のなかで、ただ国からの休業補償や多くの原発事故の復旧作業員が宿泊の定宿施設として利用することで一時的な収入が得られたものの、温泉街を中心とした街づくりはより困難なものとなっていたともいわれています。

 


又、その後の福島第一原発の津波による事故では、建屋の水素爆発や炉心溶融による危機などがあり、放射能の影響が住民を不安にさせ、高濃度汚染水が海に放出されたこともあって、風評被害当をも含めても放射能との長い闘いが始まることになります。

今までは当たり前のように温泉街の多くの旅館は、小名浜港から直送される海産物を使った料理が目玉でしたが、原発事故を契機にそれを売りにすることは難しくなってしまいました。

 

 

 

 

 ● 震災後の湯本温泉街の宿泊関連、

 


その後の湯本温泉街の旅館やホテルは、震災や原発事故の復興作業員を受け入れるようになりました。 作業員は主に原発作業員、除染作業員、震災復旧工事作業員等で構成され、それらの人員は
2000から3000人のも達し、旅館、ホテルは連日満室の状態となり、売り上げが震災前の2倍になるところもあったともいわれています。


特に、飲食店関係では食堂やスナックや居酒屋は、炭鉱が栄えた時代をほうふつとさせるような大変なにぎわいであり、所謂、町内では「復興バブル」の状況が
2年近くつづいたともされています。 この様なことで、一部の人たちからは街の風紀を気にする声もありましたが、ただ温泉街で復興作業員を受け入れたことで、原発事故収束のためにも大きく貢献したともされているのです。

 

そんな中で、一方では湯本温泉ならではのイベントや祭りも盛んに行なわれるようになっていて、金刀比羅神社の例大祭(1月)、温泉神社の例大祭(5月)、いわき湯本温泉夏まつり(8月)、じゃんがら念仏踊り(8月)、いわき湯本温泉月まつり(10月)等が例年通り開催されています。 また、2016年度封切りの映画、『超高速! 参勤交代』(本木克英監督、佐々木蔵之介・深田恭子主演)の舞台となった温泉地郊外にあった湯長谷藩(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)に因んだイベントも取り組まれていました。

 

以上のようにある旅館の主人は、いわき湯本温泉では、これまでだれも経験したことのない原子力発電所の災害からの復興と再生という、明らかに困難な課題に今後も引き続き取り組もうとしています。 その課題の解決がむずかしいほど、そこに暮らす人びとの「まち」への愛着や誇りが糧となって、ユニークな経営や実践が生まれ続けるに違いありません。 今こそ、日本のどこにもない、世界でもまれな温泉街を生み出す好機と考えて、「ないもの探しをやめて、あるものを磨く」地域づくりの基本にじっくり取り組んでほしいと思います、と語っている。

 

 

 

 

● 老舗旅館の「古滝屋」と考証館

 

ところで、湯本温泉街の中でも天王崎という中心地に有って老舗旅館ともいわれる「古滝屋」では、東京電力福島第1原発事故を伝えるための「原子力災害・考証館」というのを、館内の一部を開放してオープンしたという。 展示数は凡そ100点の資料で、、宿泊者は当然としてもお客さん以外も館内に入って無料で見学できるそうです。

 

考証館は、震災と原発事故で館内を利用する客数が減り、従って、使われなくなった宴会場を利用して行なわれているもので、展示の内容としては防護服を着用して行方不明者を捜索する住民の写真や、津波に巻き込まれた同県内の大熊町の女児の遺品などが並んでいる。 又、住民が起こした裁判の記録、原発事故の関連書類等も展示されている。

 

これ等の資料は旅館の当主である里見氏が被災した住民らと協力して集めたもので、たまたま原子炉建屋の水素爆発が起きた日に合わせて開館したともいわれている。 里見氏は「原子力災害で古里でもある地域の歴史や文化、営みが喪失したのである。 エネルギー問題は東京や福島だけでなく全国の課題でもある。 『己自身のこと』と自覚しながら見に来てほしい」と話している。

 

 

次頁は、「湯本温泉を利用した人たちの口コミ」

 

 

2021年11月22日月曜日

東北大震災といわき市界隈、

 



 

 

● 東北大震災に見舞われたいわき市の概況、

 先ず、発生状況から、東日本大震災は2011年(平成23年)311日に発生した大地震で正式には「東北地方太平洋沖地震」ともいい、地震の規模はマグニチュード9. (M) 最大震度70が発生し、この時点において日本周辺における観測史上最大の地震であるとされている。 

 

また、この地震により津波が発生し場所によっては波高10メートル 以上、最大遡上高さ(山や障害物に突き当たって跳ね上がるときの高さ)が40. mにものぼる巨大な津波が発生し、津波による二次的な大災害が発生した。 又、これに伴う福島第一原子力発電所の事故災害も発生し、東北地方を主として関東地方や太平洋沿岸部に壊滅的な大被害を発生させた。 

 

此の東日本各地での大きな地震や大津波、火災などにより東北地方を中心に22000人余の死者・行方不明者が発生させた。 ご当地のいわき市内においても人的被害は死者・行方不明者350人ほど出していて、倒壊家屋も含めて其の9割以上は津波のよるものであった。

 

この様に沿岸部を襲った大津波の襲来によって街を破壊し尽くす様子や福島第一原子力発電所における原子炉事故と炉心溶融(メルトダウン)の発生は、言うなれば地球規模での大きな衝撃を与えたとされているが、此の大震災が発生した日付から因んで、呼び名を3.11(さんてんいちいち、さんいちいち)などと略称することもある。

 

 

 

 

● 実家であるいわき湯本の場合、

 

さて、いわき湯本の被害状況であるが、地震の様子は震度6程度であり、全壊の家屋や一部破壊があったが、津波に関しては海岸より遠い内部地域にあったために直接的な大被害は無かったが、その後の原発事故後の風評被害など間接的な被害を被っていたことも事実であった。 

 

其の時に、筆者自身もいわき市内に本家や親類等が居りますので連絡を取ろうとしたが、震災の当日、翌日もテレビを見ながら気が付いたのですが、普通電話や携帯電話、それにSNSなどのネット関係もつながらず、外部との連絡は非常に制約されていました。 そして数日してやっとのことで常磐白鳥町の本家でもある親戚へ電話が繋がったので状況を伺ったところ、「一回目の地震で家本体がやや傾いた感じであったが、すぐに発生した同程度の2回目の大地震で、元に戻ったようだ」というような、なんとも不思議な感じの妙な話を聞いた。 更に、「今現在は断水しているが、広報車などの知らせで間もなく復旧はするらしい。 それにしても此処内陸部はそうでもないが、海岸部の小名浜地域などは津波で相当に被害をうけているらしい」と言う事を聞いた。 

 

何れにしても、親類一同は結果として人身、家屋ともに無事だったということで一安心はしました。 ただ、菩提寺である龍勝寺の墓地の墓石が横向きに変形しているから、直ぐにでも治す必要があるとも言われてしまいました。 そしてその後で、筆者は1ヶ月ほど過ぎてから田舎を訪れました。 いわき湯本インターを降りてから直ぐ近くの白鳥町の本家に向かおうとしたが先ず驚愕したのは、メイン道路が未だ地震による影響で路面が波打っていてマトモに走れなかったことです。 その後、お寺へ向かって墓石を修正してお参りした後は、沿岸部の様子を見に行ったが、小名浜港の地震と津波の状況は惨状を極めるものでした。

 

 

 

 

● いわき市沿岸部の影響は、

 

小名浜港の岸壁にある魚市場周辺は誠にひどい状態で、市場の前には大きな漁船が何隻も乗り上げていましたし、トンネルの中には小舟が横たわっていました。 又、川には乗用車が数台沈んでいて、畔には3、4台も車が折り重なっていましたね。 

埠頭地区を走る産業道路は亀裂や段差が随所にあり、車がまっすぐに走れないほど色々なものが散乱していました。 ここが道路だとは思えないほど泥や砂利が蓄積し、車線もまったく分かりません。 津波で流されたタイヤ類、破壊されたプレハブ小屋、常用車、トラックの横転している姿、港建設のための鋼管杭を積んだ巨大な台船など、港に関係する様々な物資や物が道路をふさいでいましたね。

 

そして、今では観光名所にもなっている小名浜港のにぎわい空間であるアクアマリンパークともいわれるアクアマリンふくしま、いわき・ら・ら・ミュウ、小名浜美食ホテル、小名浜潮目交流館等のいずれもが大きな被害を受けていました。

その後は、海岸沿いを散乱物を避けながら、中之作港、江名港、豊間の海岸など目を覆うような惨状を見ながら海岸通りをユックリと北上して豊間の灯台(塩屋崎灯台)を目指しましたが、進入路は完全に閉鎖されていました。 しかた無しに国道6号線でから湯本まで戻ってきましたが。



次回は大震災と湯本温泉、

 

 

2021年11月9日火曜日

福島県人気質は意外と保守的、

 




 

 

 

● 主観的ですが、福島県人気質は意外と保守的、

 
小生は現在は神奈川県在住ですが、実際は福島県いわき市湯本の出身です。 福島県は浜通りの東北の玄関口であり、県の形は東西に広く長い地域です。 従って、そのため気風や風土も極端に異なり、その傾向は主に三つの地域に分けられます。

先ず、現在NHKの大河ドラマでも知られる「会津地方」、阿武隈の清流が流れる盆地地域の「中通り」、それに太平洋に面し、今ではスッカリ御馴染みになった原発事故の「浜通り」であります。

 これらの三地域は意外と交流が少なく、其々が独自色を出しているようで、会津はご存知のようにテレビでは間もなく戊辰戦争の会津の役が始まろうとしております。 結果は散々な目にあって敗戦に到るが、この時の長州への恨みは硬く、現在でも山口の萩のは怨念の日々が続いていると言います。 

兎に角、会津の人々は不撓不屈の精神、男女問わず強力に頑固者とされていますし、歴史上止むを得ない面もあります。

 「中通り」は、やや閉鎖的な風土を残してはいるが、福島市や郡山、白河と東北・奥羽の往来路でもあり、新しい物好きで柔軟なタイプが多いようです。

又、いわきを中心とした「浜通り」は、太平洋、港町が多く、威勢のいい面もあり、陽気でエネルギッシュなタイプが多いようです。

 一般に福島県人に共通する気質といえば、保守的であろう。 関東や東京に近く、情報通信が頻繁な世の中でも、頑な(かたくな)といえるほど、方言などは昔と少しも変らず、変えようともしない。 これはこれで結構だとは思いますが。

 

  

● 主観的な福島男性の性格

 福島県、特に浜通りのいわき地方は同じ東北でも関東圏に近いせいか、人との付き合いは大事にする方で、約束はキチッと守りますが、余り口八丁ではありません。 女性には持てるタイプがおおいが、要領は必ずしも良くなく、賭け事も深入りはしない方でしょう。 

 地域的には浜通り、中通り、会津地方に別れていますが、地方によって若干性格は異なるようで、浜通りは季節柄かおっとり型、一方、歴史の漂う会津地方ならではで筋の通った事を押し通し、曲がった事が嫌いな強情っぱりが多いのでは。

 口下手でおとなしいが、人間関係を大切にし、めったなことでは人を裏切らない。 要領は良くないが、正義感が強く女性に優しい。 ギャンブル好きな面はあるが、のめり込んだりはしない。 会津は頑固だが、その他の地域は柔軟性がある。

 

  ● 福島女性の性格

 際立った美人はいないが、ぽっちゃりした女性らしい人が多く、郷土に誇りを持った意志の強いところもある。 女性らしいヤンワリ口調で、人との交流を大切にしながら、笑顔の優しい女性が多いようです。 こちらも浜通りから会津地方と気候、風土が異なるように、浜通りは濃い肌の優しげな女性で、人と同調しながら付いてゆくタイプ、一方、会津のほうは雪国らしく色白が多く、気性もキリッとして気品のある女性が多く、決まり事には厳しく対処する女性が多いのでは。 

 

 

 次回、いわき湯本と東北大震災、

2021年11月1日月曜日

いわき湯本での若き思い出、

 

 

 

● いわき湯本の中学時代の思い出

先ずはいわき湯本在住時の中学校時代の思い出です。 中学校時代を振り返りますと、もう余りにも懐かしいと思うくらい年月が過ぎたのだなぁと感じますが、何故か思い出すと湯水のように其の思い出が蘇ってくるのです。 あの頃は当然ながら携帯やスマホのようなものはなく、従って、家の中で中で遊ぶよりも外で遊んでいたほうがはるかに多く楽しかった気がします。

 

遊びの内容もいろんな遊びがありましたが、中でも激しかったのは巡査ごっこやドロケイ(泥棒警察ごっこ)に自分たちでルールを増やしたりして、泥だらけになるまで遊んでいたと思います。 運動も嫌いではなかったので、学校では運動部のバレー(ボール)部やバスケ部に入部して、部員と一緒に激しい練習をしたりと色々やっていましたね。

 

思い出で印象深いのは修学旅行もそうですが、運動会の思いでも強いですね。

普段別クラスでも運動会の時に一緒の組になったりするので普段取れないコミュニケーションが取れたりしますし、クラス全体が一致団結できる数少ない機会なので、余計に印象に残るのかもしれません。

 

激しかったのが騎馬戦や棒倒しでしたね。 騎馬戦は騎乗者を地面に叩きつけるまでやりますし、棒倒しなどは攻める側と守る側に別れてって、開始の笛の合図と同時に相手の棒に向かって突進し、激しく喧嘩(・・?)しながら相手の棒を水平にするか地面に叩き落とすという競技です。  何方も男性向きの激しい喧嘩腰の競技でしたから男は燃えましたよ。 最近は運動会にしろ何にしろ何事を行うにも安全第一でヨワヨワしくて宜しくないですね。

 

其れに、やはり燃えるのは最後の種目であるクラス別対抗リレーでしたね。 当時そこそこ足が速かったので走るのも好きでしたし、あのなんともいえない緊張感がたまらないですね。

たまに思い返してみると楽しい思い出しか出てきませんね、少し時間をつくって色々と思い返してみたいと思います。

 

 

 

 

 

● 高校生時分の通学時の体験談です

 

当時の田舎は、福島県いわき市常磐湯本で、あのいわき湯本温泉で有名なところです。 東京から常磐道で「いわき湯本」、JR常磐線では「ゆもと湯本」駅が交通の基点となってます。

 

我家は駅からは降りて、正面を左方向にあり、歩いても10分足らずの比較的交通の便はいいところです。 駅から右手方向には温泉街が広がっていて、近代的なホテルや和風の旅館があり、街中には公衆温泉浴場(立ち寄り湯)や足湯なども揃っていて、温泉の風情もあるところです。 そして、何よりもあの全国的に有名になった映画・「フラガール」でも御馴染みのところです。 勿論、あのスパリゾート・ハワイアンズのあるところです。

 

さて、小生が高校生の時は、常磐線は未だ蒸気機関車(S・L)の時代でした。 

通学は、常磐線の湯本の駅から下りで二つ目の「平」駅でした。 この駅から歩いて15分ほどの県立高校でした。 当時は通学専用と言っていい2両編成の列車があって、始発がこの湯本駅だったのです。 通常は勿論、通学定期を見せて改札口を通って汽車に乗るわけですが、朝寝坊の小生は何時もギリギリで、時には発車寸前になって慌てて改札口を通らないで、最後尾の所へ乗り込む始末でした。

 この回数も週に一回程度はあり、ある時など、汽車が発車して動き出してからから乗るときもありました。 (汽車は電車と違って発車時はゆっくり走り出し、走って乗り込むことも出来たのです) 時折、車掌に、「又、お前か・・!」と小言を言われもしたが、この車掌さんとはこんな因縁で、変な知り合いの間柄のもなったのです。

 ある時など、小生が走ってくるのを知って、汽車の発車を遅らせたこともあったようで、「お前のお陰で、2分遅れたぞ」などと、こんな事もありました。

何れにしても古き昔の、ヤンチャな時代の懐かしい思い出です。

 

  

 

● 福島県立磐城高校

 因みに、筆者が通学していた高校は、福島県立磐城高校といって福島県の浜通り、いわき市にある一応は有名進学高校です。 親父の時代は磐中(ばんちゅう)と言われていたように、旧制磐城中学校が前身であり、我等の頃は磐城高校(ばんこう、後にいわこう)になっていたが、校歴は100年以上の歴史を有する学校で、地元では評判の高校です。

 場所は、常磐線のいわき駅(旧平駅)から北西の方向で、徒歩で15分程度の高月台と言う地名の高台にあります。 進学率の高い進学校で、生徒の8から9割は大学へ進学します。 我等の頃は男子専門校であったが、近年では女子も受け入れるようになり、従って、丘を越えた向こう側に磐城女子高校があったが、磐城桜が丘高校と変名し現在は男女共学高校となっているようです。

 クラブ活動も盛んで、特に運動部は野球部は夏7回、春2回甲子園に出場し、御存知、1971年の夏の甲子園では準優勝に輝いた実績を持つ。 この他にもラグビー部が全国高校ラグビー大会に17回出場、サッカー部が全国高等学校サッカー選手権大会に5回出場している。

又、文化部では全日本吹奏楽コンクール、全日本合唱コンクール等が実績をあげています。

 

 

 

 ● 人気野球漫画の「ドカベン」は、夏の甲子園決勝で惜敗した「磐城高校」がモデル、

 因みに、人気漫画に水島真司の「ドカベン」は1971年度の夏の甲子園決勝で惜敗した磐城高校がモデルともいわれています。 野球マンガで人気のあった『ドカベン』に見る、かってのいわき市は炭鉱の町であり野球熱が盛んな地域でもあります。

 この「ドカベン」に出てくる、いわき東高校のモデルは磐城高校だといわれています。 進学校としても知られるこの県立磐城高校は、1971年夏の全国高校野球選手権でやはり「小さな大投手」といわれた165㎝の田村隆寿を擁して決勝まで勝ち上がり、神奈川の桐蔭学園高校に01で惜敗します。

 田村は全試合を1人で投げ抜き、初戦から連続完封。決勝戦の桐蔭学園高校との試合で0-0から7回裏に34イニング目での初失点を喫しました。 1失点だけの準優勝投手は、未だに長い歴史を誇る全国高校野球選手権の歴史のなかでも彼しかいません。

 

  

● 炭鉱があった磐城地方の野球熱が、当時の高校野球を盛り上げていた

 いわき地域の炭鉱の核になっていた「常磐炭鉱」が閉山を決めたのが、くしくも同じ年の1971年でした。 準優勝に終わった磐城高校の野球チームのパレードを、地元の人たちは大きな歓声で迎えたといいます。 すべての炭鉱が集結するのが1984年でしたが、中核になっていた常磐炭鉱の閉山は、街全体に将来への不安を掻き立てていました。

 今は昔の炭鉱全盛期には炭鉱企業が福利厚生としてスポーツに力を入れたことから、産炭地は野球熱を帯びていきました。 炭鉱企業の常磐炭礦は社会人野球チームがいくつもでき、後楽園で全国大会が行われた都市対抗野球でも存在感を放っていました。 そして、そこからプロ野球の世界に羽ばたいていった選手も数多くいました。

 昭和の高校野球イメージとしては、磐城高校はかつての男子校から今は共学校になりました。 近年では2020年の選抜高校野球大会に21世紀枠で出場予定でしたが、新型コロナの影響で同大会が中止になってしまいました。 代替大会として8月に開催された高校野球交流試合では、国士館高校と対戦して34で惜敗しました。

 

高校野球があっ「『ドカベ」があり、「ドカベン」があって高校野球があった、それが昭和から平成の時代だったのです。

 

   

 

次回は、福島県人気質とは、  


2021年10月29日金曜日

いわき湯本温泉の口コミ、評判記事、

 


 

 ● 常磐道の「湯の岳PA」と湯本温泉に浸かる、 

 午後になって自宅の神奈川県厚木市から福島に所要が有って常磐道経由でトヨタのアルファードで出かけたところです。 途中、常磐道の「湯の岳PA」で車中泊となりましたが、その理由はいわき湯本温泉に浸かるという最大の目的もあったからです。 ただ、常磐道の湯の岳PAはなんの変哲も無いPAでこじんまりとした建物にトイレや自販機などが有る程度でした。 車中泊の要所は何といってもトイレ設備が有ることが肝心で、そのほかは御近所のエリアを上手に利用する事も大事な要素になるでしょう。

 

 そのご近所の有名なエリアとなりますとPAの名称のごとく有名な湯本温泉になります。 、特に常磐線の湯本駅から温泉街が広がっているのは右手方向で、和風の旅館から近代的な観光ホテルまであり、街中には足湯や公衆温泉浴場なども揃っていて、バラエティに富んだ温泉風情が広がっています。 筆者はこの湯本温泉の「さはこの湯」という立寄り湯に浸かって温泉情緒を楽しみながら飲食も温泉街で堪能しました。

 

 ところで、いわき湯本温泉といえば中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったといいます。 そして、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街で、日本のエネルギー産業の柱であった「黒いダイヤ」と云われた「石炭」の街であった。 町外れにその記念館として立派な「石炭・化石館」があり、往時の常磐炭田の採掘の歴史や産出化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示しています。 又、かっての石炭採掘の坑道なども見学できます。

 

 温泉の泉質は、全国的にも珍しい「含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉」俗称、硫黄泉で、「美人の湯」(美肌作用・解毒作用・末梢血管拡張作用)、「心臓の湯」(血圧を低下させる~動脈硬化、高血圧に効く)、「熱の湯」(高齢者向き~保温効果が高い)を始め数々の効能を併せ持っているといわれます。 勿論、温泉は「源泉純粋かけ流し」で、湯温も浴槽の吐湯口で50度以上を保っているという、ベスト条件が揃った温泉です。 どうぞ、皆さんお出かけください。

 

  

 

 

 

● 磐城名物 「じゃんがら念仏踊り」  

 

福島県いわき地方の「じゃんがら念仏踊り」

開催日程は旧暦のお盆のシーズンで8月13日から8月16日、

此れは祈りの所業であり、鳴り物が入った歌や踊りということで、通常は新盆の家が対象になります。 そして、ついでに各地域ごとに又は、いわき地方全体として会場のホールでコンクールや大会などもも行われるばあいもあります。

 

運営局や会場問い合わせ先の電話番号は

いわき市総合観光案内所  

TEL0246-23-0122

一般社団法人 いわき観光まちづくりビューロー 

TEL0246-44-6545

 

 

同時期に行われる「いわき盆踊り」は磐城地方独特の踊りで同じ時期に行われ、大勢の人手や露天商なども並びますが、此方の「じゃんがら念仏踊り」個々の小さなイベントで、個人宅を訪問し厳かに行うことが原則になっています。 その為にお祭りのような大勢が集まってワイワイするものではありませんし、従って、会場の楽しみや露天商などはありません。

 

アクセスは、首都圏からですとJR常磐線の湯本駅、いわき駅、其れに車ですと常磐自動車道のいわき湯本IC、いわき中央ICになり、時間的にはどちらも2時間少々になります。

 

 

 

 

● いわき地方の伝統芸能である「じゃんがら念仏踊り」

 

帰省時のお楽しみは地元の風物詩でもある、「じゃんがら念仏踊り」です、 

先ず私事になりますが私は首都圏の神奈川県内に住む者ですが、田舎であり実家は福島県の「いわき湯本」というところです。 従って、湯本には両親やご先祖様が眠る菩提寺参拝の折に、年に1から2度は田舎へ訪れます。 此の時に夏場の旧暦のお盆のシーズンになりますと、いわき名物の「いわき盆踊り」や「じゃんがら念仏踊り」というイベントが有り、以前は折に触れて、学友たちと楽しんだものです。 そして、いわきのお土産として自宅や会社、付近の方々にお配りするのが「じゃんがら・自安我楽」という、いわき地方の名物の甘いお菓子なのです。

 

いわき湯本をはじめ、周辺地方各地には古くから伝わる独特の伝統芸能である「じゃんがら念仏踊り」がありますが、其の姿や格好は、お揃いの浴衣姿にねじり鉢巻きの襷掛け、其れに足には白足袋を履いた姿の若い男衆が、手持ちの鐘と太鼓の音にあわせて、独特の歌を歌いながら踊りを加えて仏前に披露します。 太鼓や踊りの周期はである一流れが凡そ20分程度で、太鼓打ちの3人を中心に10人前後の男衆がダイナミックなリズムに併せて優雅に力強く踊ります。 踊り歌う場所は、その年の新盆の家の玄関前とか庭先、其れに寺院の境内やお薬師さん、お不動さん、其れに観音堂などで繰り広げられます。

 

 

 

 

● 夏のお盆の風物詩「いわきじゃんがら念仏踊り」

 

福島県はいわき(磐城)地方の「夏祭り、イベント」ですが、このあたりは夏の風物詩、夏祭りとして「いわき盆踊り」や「じゃんがら念仏踊り」が催ようされます。 いわき盆踊りは旧のお盆のシーズンで8月の13日から16日のあいだに行われるもので、いわき盆歌に併せて組櫓を中心に老若男女が輪になって愉快に、活発に夜の6時ころから11時頃まで行われます。 

 

「じゃんがら」は「自安我楽」とも記して、「自ら安すんじながら我も楽しむ」という意味があります。 浴衣姿の若い衆達が、鐘と太鼓と独特の踊りで、仏さん(大衆でもあります)を慰めるのです。 そして、いわき市内や地方では、単に「じゃんがら」と呼んでいて親しまれ、主に旧盆の毎年813日から16日までの4日間行われ、いわきの夏のイベント、風物詩として知られる。いわき市の代表的な「無形民俗文化財」にも指定されているのです。

 

又、お盆の同時期に此方はいわき盆踊りとは異なって、飽くまでも仏さんの供養のために行われるもので、「じゃんがら念仏踊り」というのがあります。 此れは夏のイベントとして各会場や公民館などで行われますが、主体は飽くまでも昨年に亡くなった仏さん(いわき地方では新盆ともいう)を供養するのが本来の目的です。

 

 

 

2021年10月28日木曜日

いわき湯湯本温泉の口コミや評判、体験記、

 



● 家族や仲間と楽しめる「スパリゾートハワイアンズ」

常磐ハワイアンセンターは、現在は「スパリゾートハワイアンズ」に改名されておりますが福島県の浜通り、いわき市湯本に所在する大型レジャーランドで、古来からの天然温泉を利用したスーパーテーマパーク、他にも豪華ホテルやゴルフ場なども含まれております。

所在地は福島県のいわき市湯本というところに在ります。
東京からですと常磐線で上野からほぼ2時間少々のいわき湯本駅になります。 福島県に入ってからは4番目の駅になります。 此の湯本は平安時代からのフル古い温泉町で、駅前には足湯などもあり既に温泉街の雰囲気が広がっていますし、温泉名物のお土産店も並んでいます。
そして、町中には温泉場らしい和風の旅館やモダンなホテルまであり、特に駅から右方向には足湯や立寄りの共同湯などの温泉浴場もあり、温泉街の雰囲気が広がっています。

さて、此のいわき湯本温泉には、かって映画の大ヒットでも有名になった「フラガール」を御存知でしょうが、それは「スパリゾートハワイアンズ」そのものを描いたものでです。スパリゾートハワイアンズは、天然の暗線を利用した常夏の大規模レジャー施設であり、今ではすっかりTVのコマーシャルでもお馴染みになっていて、全国にその名を知られております。



 ● スパリゾートハワイアンズの温泉施設とその効用、

スパリゾートハワイアンズは、映画・フラガールでもご承知の通り、何といってもフラダンスショーが有名で、大プール横のメーンステージでは、ここの一番の呼び物になっていて、定時間的の催されており演ぜられています。 
他にも大プールや流れるプール、それにワンダーホルンなどの特殊な施設が多数あります。 其の中でも、「江戸情話与市」という大露天風呂もあり、何でもこれは世界一の広い露天風呂のことで、さの浴槽としてギネスにも登録されているそうです。
特に、温泉の泉質は古来から名泉としても知られていて、全国でも珍しいといわれる含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉と称するそうです。 硫黄泉は美人の湯(美肌効果や末梢血管拡張作用)、心臓の湯(高血圧を低下させ)、熱の湯(高齢者の保温効果が良いなどの数々の効能を持併せているとされています。
勿論、温泉そのものは純粋な源泉かけ流しの湯で、湯の温度も浴槽の出口温度が50度前後を保っているといい、まことにベストの条件が揃った効能豊かな温泉ということです。

アクセスも首都圏からですと東京の環状線から、常磐自動車道を土浦、水戸、日立等を通過し凡そ200km走って、いわき湯本インターチェンジで降りて案内に従って進むと凡そ3分ほどで、巨大な施設がお見えします。
鉄道利用ですと、東京・上野(最近は東京駅からも可能)の常磐線かた特急に乗りますとほぼ2時間少々で湯本駅につきます。 ここから常時、湯本駅、一つ手前の泉駅から無料送迎バスが運行していて約15分ほどで到着します。
首都圏から比較的近距離なので、早朝のお出かけには日帰りでも可能です。
また、宿泊の利用の方は首都圏から無料の送迎バスも運行されているようで、千葉からですと西船橋駅、それに東京は東京駅、新宿駅、渋谷駅、更に埼玉県からはさいたま新都心駅、神奈川県からは横浜駅が、其々の発着の無料送迎バスが利用できるようです。



● スパ・ハワイアンと湯本温泉、

「スパリゾートハワイアンズ」に行ってきました。
いわき湯本温泉;常磐線でゆもと・湯本駅が交通の基点です。 駅から右手方向に温泉街が広がっている。 共同浴場、足湯も有る。湯本は古い温泉の街で、平安初期には開湯したといい、道後温泉、有馬温泉とならぶ日本の三古泉。映画・「フラガール」でもしられるスパリゾート・ハワイアンズは常夏の大温泉レジャーセンターで、全国的にも有名になった。その中の“江戸情話与市”は、ギネスブックにも登録された世界一の露天風呂がある。
上野から常磐線で、又は首都高速から常磐線で「いわき湯本」に着きます。 駅を降りて左の方向に、温泉街が広がっていて、近代的な観光ホテルから和風の旅館まであり、温泉街の街中には公衆温泉浴場(三箱の湯ほか)や足湯も揃っていて、バラエティに富んだ温泉風情が広がっています。
「湯本温泉」は、平安時代から文字通り古い温泉の街であり、又、直ぐその昔は常磐炭鉱という石炭の町だったそうですね。 石炭館という歴史資料館もありました。
しかし、映画・「フラガール」が何と言ってもでも有名になりましたね。 その「スパリゾート・ハワイアンズ」に家族でいった来ました。 スパリゾートハワイアンズは、大きなドームの中に温泉の巨大プールがあり、遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設でした。

ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設もあり、特に、中央メーンステージでは、映画・フラガールでも有名になった、その名の如く「フラダンスショー-」が定時的の演ぜられていました。 
その他にも、「江戸情話与市」と、世界一広い露天風呂もあります。
温泉の泉質は、全国的にも珍しい含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉といい、俗称、硫黄泉で、美人の湯(美肌作用)、心臓の湯(血圧を低下させ高血圧に効く)、熱の湯(高齢者向き)を始め、数々の効能を併せ持っているといわれています。



● 福島県いわき市の「いわき湯本温泉」

我が故郷である「いわき湯本温泉」を紹介します。 
常磐道で「いわき湯本」、常磐線で「ゆもと・湯本駅」が交通の基点となります。 我家の実家は駅を降りて左方向であるが、温泉街が広がっているのは右手方向で、和風の旅館から近代的な観光ホテルまであり、街中には足湯や公衆温泉浴場なども揃っていて、バラエティに富んだ温泉風情が広がっています。

「湯本」は文字通り古い温泉の街であります。
平安初期には開湯されたと言われ、昔の湯本温泉は「三箱の御湯」と呼ばれ道後温泉、有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていました。
中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったといいます。
そして、何と言っても映画・「フラガール」でも有名になった「スパリゾート・ハワイアンズ」のあるところです。 常夏の大温泉レジャーセンターは全国にその名を知らしめました。
其の「スパリゾートハワイアンズ」は遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設であり、ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設があり、特に、中央メーンステージでは、ここの一番の呼び物のその名の如く「フラダンスショー-」が定時的の演ぜられます。 
又、「江戸情話与市」は、ギネスブックにも登録されたといわれる、世界一広い露天風呂があります。



 ● 久しぶりに湯本温泉へ、

先日、3月も過ぎて陽気も温かくなり、久しぶりに実家の福島いわきへ車で行ってきました。 実家はいわき湯本温泉で、車で常磐道のいわき湯本ICまで、東京からだと2時間もあれば行ってしまいます。 電車の場合は、常磐線で「ゆもと・湯本駅」が交通の基点となります。 我家の実家は駅を降りて左方向、歩いても10分足らずのところであり、小生OBの湯本小学校の真下に当るところです。
ところで、湯本は文字通り古い温泉の街であります。 湯本駅から温泉街が右手方向広がっていて、和風の旅館から近代的な観光ホテルまであり、街中には足湯や公衆温泉浴場なども揃っていて、バラエティに富んだ温泉風情が広がっています。
平安初期には開湯されたと言われ、昔の湯本温泉は「三箱の御湯」と呼ばれ道後温泉、有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていました。
そして、何と言っても映画・「フラガール」でも有名になった「スパリゾート・ハワイアンズ」のあるところです。 常夏の大温泉レジャーセンターは全国にその名を知らしめました。 「スパリゾートハワイアンズ」は遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設であり、ウォーターパークといわれる大プール、流れるプール、ワンダーホルンなどの施設があり、特に、中央メーンステージでは、ここの一番の呼び物のその名の如く「フラダンスショー-」が定時的の演ぜられます。 又、「江戸情話与市」は、ギネスブックにも登録されたといわれる、世界一広い露天風呂があります。

温泉の泉質は、全国的にも珍しい「含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉」俗称、硫黄泉で、「美人の湯」(美肌作用・解毒作用・末梢血管拡張作用)、「心臓の湯」(血圧を低下させる~動脈硬化、高血圧に効く)、「熱の湯」(高齢者向き~保温効果が高い)を始め数々の効能を併せ持っているといわれます。
勿論、温泉は「源泉純粋かけ流し」で、湯温も浴槽の吐湯口で50度以上を保っているという、ベスト条件が揃った温泉です。
中世には戦国大名の来湯も多くあり、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったといいます。 そして、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街で、日本のエネルギー産業の柱であった「黒いダイヤ」と云われた「石炭」の街であった。 町外れにその記念館として立派な「石炭・化石館」があり、往時の常磐炭田の採掘の歴史や産出化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示しています。 又、かっての石炭採掘の坑道なども見学できます。
どうぞ、皆さんお出かけください。
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2021年10月26日火曜日

いわき市湯本温泉の紹介 

 

 

 


 ● 再び
いわき市湯本温泉の紹介です、

 

 福島県いわき市湯本・湯本温泉の紹介です、

福島県の浜通りの南部に位置する「いわき湯本」は、車ですと常磐道で「いわき湯本IC」、電車ですと常磐線で「ゆもと・湯本駅」が交通の基点となります。 湯本は文字通り古い温泉の街であり、平安初期には開湯されたと言われ、昔の湯本温泉は三箱の御湯と呼ばれ道後温泉や有馬温泉と共に日本の三古泉として名が知られていました。

 

街中には温泉街が広がっていて、昔からの温泉旅館や観光ホテルが立ち並んでいますし、駅前には足湯があり、また、共同浴場も良質な温泉と安い料金で入用出来ます。 そして、何と言っても映画・「フラガール」でも有名になった「スパリゾート・ハワイアンズ」のあるところです。 常夏の大温泉レジャーセンターは全国にその名を知らしめました。

遊び感覚いっぱいの温泉リゾート施設ですが中でも「江戸情話与市」は、ギネスブックにも登録されたといわれる、世界一広い露天風呂があります。

湯本の駅からも3km程度のところで、送迎バスでも15分足らずの所です。

 

 

 

● いわき湯本温泉の歴史と温泉の泉質、

 

鄙びた湯本駅を降りると直ぐ駅前には温泉街が広がっていますが、特に右手方向では和風の旅館から近代的な観光ホテルまで所々に建っていて温泉場の雰囲気を醸し出しています。 特に、街中には足湯や公衆温泉浴場なども揃っていて、バラエティに富んだ温泉風情が広がっています。

 

湯本温泉は歴史的には中世の頃には知られていて、戦国期には戦国大名の来湯も多くあったとされていて、更に、江戸時代は浜街道唯一の温泉宿場町として、来遊が絶えなかったといいます。

 

そしていわき湯本といえば以前は常磐とも言われていて、克ってはあの「常磐炭鉱」で賑わった炭鉱の街でもあったのです。 日本のエネルギー産業の柱であった「黒いダイヤ」と云われた「石炭」の街であり、街外れにはその記念館として立派な「石炭と化石館」が建っていて、往時の常磐炭鉱の採掘の歴史や産出当時の化石をはじめ、地球の歴史を物語るといわれる諸外国の化石資料などを展示しています。 又、かっての石炭採掘の坑道なども見学できます。

 

 

さて、湯本温泉の温泉の泉質は、全国的にも珍しい含硫黄-ナトリウム-塩化物・硫酸塩温泉とも称していて、謂わば、軟らかい硫黄泉でもあり、此れは即ち「美人の湯」とされ、美肌作用や解毒作用、其れに末梢血管拡張作用などがあり、或いは心臓にも良いとされて「心臓の湯」ともいわれているのです。 此れは即ち、血流をよくし血圧を低下させる効果があり、動脈硬化や、高血圧に効くともされているのです。 高温の温泉は「熱の湯」とも呼ばれていて、高齢者向きで保温効果が高いともされていて、数々の効能を併せ持っているといわれます。

勿論、温泉は「源泉純粋かけ流し」で、湯温も浴槽の吐湯口で50から60度以上を保っているという好条件が揃った温泉なのです。

 

 

 

● いわき湯本温泉の温泉スポット、一大レジャータウンについて、

 その絶えず噴出る源泉は、現在では大レジャー施設や保養施設、其れに多くの宿泊施設のみならず、今では多くの一般家庭にまで温泉が引かれているのです。 その一大レジャー施設の代表が映画・「フラガール」の舞台にもなったスパリゾート・ハワイアンズでしょう。

 

元より、常磐炭鉱閉山の後は、同じ経営母体だる関係会社が大量湧き出する温泉に眼をつけ、当初は常磐ハワイアンセンターと名づけ、現在では全国CMでも御馴染みの、「スパリゾート・ハワイアンズ」となって、常夏の大温泉レジャータウンを設立し、全国的ににその名を知らしめたのです。

 

「スパリゾートハワイアンズ」は、場所的には常磐道の湯本ICの直ぐ近くに有って大変便利もよく、施設としては遊び感覚いっぱいの一大温泉リゾート施設なのです。 巨大なぷーるしせつウォーターパークといわれる大プール、中央ステージではその名の如く「フラダンスショー」が定時間にハワイアンショーが演ぜられています。 

 特に、温泉施設としては温泉独自の川や洞窟の温泉浴槽、木々の間や岩などが配され南国ムードを一層盛り上げている岩風呂や変形浴槽、更には何といっても誇大な浴槽は「江戸情話与市」ともいって一個の温泉浴槽の広さでは「ギネスブック」にも登録されていて、即ち、世界一の広さをもつ露天風呂でもあるのです。

 

 ■ 、いわき湯本温泉の基本情報です、

温泉名/一般的名称は「いわき湯本温泉」

   / 常磐湯本温泉 湯本温泉源泉

源泉所在地 / 福島県いわき市常磐湯本町台山20番1

    / 58.3℃(気温 20℃)

  / 含硫黄、ナトリウム、塩化物

   / 低張性弱アルカリ性高温泉(硫黄泉)

pH値 / 7.86

 

療養泉分類の泉質に基づく、適応症、

泉質別適応症 /アトピー性皮膚炎、尋常性乾癬、慢性湿疹、表皮化膿症、きりきず、冷え性、末梢循環障害、など

一般的適応症 /筋肉痛、関節痛、腰痛、神経痛、五十肩、打撲、捻挫、運動麻痺、胃腸機能の低下(胃もたれ、腸にガスがたまるなど)など、

 

以上です、

 

 

 

 

  

● かって、炭鉱と温泉が共存した街・「いわき湯本」

 福島県の浜通り、特にいわき湯本は常磐炭鉱と湯本温泉が共存した珍しい地域なのです。 先ず、常磐炭鉱ですが、日本国内では北海道、九州北部、そして本州ではこの地の常磐炭鉱が有数の炭田地帯として名を馳せたのです。

石炭は、当時は日本のエネルギー産業の柱であり、黒いダイヤと異名を取ったほどでした。

 

常磐炭鉱は首都圏の東京や川崎などの京浜工業地帯にも近く、大いに注目され需要もおおかったのです。 明治期の始め頃から、福島県南部から茨城県北部の海岸に面する丘陵地では、大々的な炭鉱開発が行われたのでした。 だだ、北海道や九州などのに比べてやや品質的には劣っていたらしく、さらに地層が特異なため、掘削は石炭層を求めて地下へ地下へと掘り下げるため、特別な労力と技術を要する炭鉱でもあった。

しかも、石炭を掘り出す際には、何故か湯本地域だけは同時に温泉も湧き出てきて、暑いし、温泉水は出るしで大変に困難であったとも言われています。

 

 ところが、石炭が斜陽になってくると同時に、温泉の効用が注目を浴びてきたのです。 実は、湯本の温泉は古い温泉の街でもあるのです。

元より湯本温泉の歴史は、平安時代の始めにはは開湯されていたといい、往時は三箱の御湯と呼ばれていて、かの愛媛の道後温泉や播磨の有馬温泉と共に日本三古泉としても名前が知られていたといわれます。

現在でも、温泉情緒たっぷりの町並みで、共同浴場や足湯も有り、観光客にも喜ばれたおります。 そして、炭鉱と温泉を題材にした映画の“フラガール”でも知られるように「スパリゾート・ハワイアンズ」もあり、常夏の大規模温泉レジャーセンターは全国にも知れ渡っております。



2021年10月24日日曜日

国指定の「白水阿弥陀堂」

 










 いわき市内郷町の「白水阿弥陀堂」、



 

● 平安時代の国指定の「白水阿弥陀堂」

 さて、「白水阿弥陀堂」は、いわき市内郷白水町にある県内唯一の国宝でもあり、平安末期に造られた浄土庭園を伴う阿弥陀堂があり、本尊の阿弥陀如来像をはじめ、国の重要文化財に指定されている仏像が5体も安置されています。 三方を低山に囲まれた浄土庭園は前面に池と橋を配し、全面に平安期特有の優雅な面影を残している。 コレラは国史跡に指定されているが特に、紅葉が美しく季節になるとライトアップもされ、観光客を魅了する。

 

この様な辺鄙(・・?)な田舎町に、優雅な平安朝の建物が残されているかは不思議な感じもするが、其れには相当の歴史的な由緒があったのです。 先ず、其の背景には奥州藤原氏といわきの岩城氏が深い縁で結ばれていたということです。

 

白水阿弥陀堂は、時代的には平安末期の1160年(永暦元年)に、いわき地方を統治していた岩城則道(岩城氏の祖)が藤原清衡(奥州藤原4代の祖)の娘・徳姫を娶っていたのに始まるのです。 徳姫は夫・則道の死後、其の菩提を弔うために寺院を建てて願成寺と名付け、その一角に阿弥陀堂を建立したとされています。 阿弥陀堂はその後、後鳥羽上皇(鎌倉初期の「承久の乱」でも知られる)により勅願寺とされ、江戸時代には、徳川将軍家より寺領10石を与えられるなど、歴代の為政者に保護され、現在に至っている。

 


弥陀堂は明治
35年(1902年)に歴史的な遺構として、当時の古社寺保存法に基づき特別保護建造物に指定され、昭和の年代になって文化財保護法に基づく国宝に指定されている。 そして、御堂内の須弥壇(しゅみだん・仏像を安置する檀)には、本尊阿弥陀如来坐像、脇侍(きょうじ・わきざむらい;木


中心となる仏像を両脇で支えながら安置されている像)の内側に観世音菩薩と勢至菩薩、外側に木造持国天立像と木造多聞天立像の五体が安置されており、いずれも国指定の重要文化財になっています。

 

又、近年の調査によると、奥州藤原氏の平泉文化と関連が深い浄土式庭園であることが判明しているが、当時の仏教文化を考えるうえで大変貴重なものと判明されていて「白水阿弥陀堂境域」として国指定史跡に指定されている。 

当時のその寺域の境堺は東西凡そ2町、南北凡そ3町(一町は凡そ109m)の広さということで、内院と外院を含めても現在の願成寺はかつての境域に存在していたとされています。 現在の願成寺は阿弥陀堂の凡そ300メートルくらいの南に位置して、やや高台に存在しています。 現在の阿弥陀堂は願成寺所有になっている、ただ庭園については行政上の市の管理になっているようです。

 

 

 


奥州藤原氏に近い中世期の岩崎氏、

 因みに、いわき地方の岩城氏は戦国時代の頃まで当地方支配していた豪族で、海道平氏とも呼ばれていたらしく、隣国の常陸平氏の佐竹氏の一族ともいわれ、岩城則道を祖としている。 前記の通り奥州藤原氏とも縁が関係が深く、藤原清衡の娘・徳姫を正室に迎えている。 (血統は源頼義の流れの娘とされるが不詳) また、岩城成衡は出羽清原氏に養子に入ったとされ、出羽清原氏との関係も深いとされる。

 

出羽国というのは今の山形・秋田地域のことで、平安期の頃までは当地の豪族・清原氏が治めていた。 後の奥州合戦では本家の清原家は滅びるが、支流の清原清衡が後三年の役で勝利を収め、後に藤原氏と名乗って平泉において奥州藤原氏の元を作っている。

 

 

蛇足ながら、平安期以降の岩城氏は鎌倉、更には室町時代にかけては、数々の戦乱を経て最盛期を迎えることになる。 更には岩城氏の戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉方に味方し謁見して領土はそのまま安堵されが、秀吉没後の「関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成方に加担して敗れ、徳川家康に降伏した後には所領の磐城12万石は除封され、お家は断絶となってしまう。 

常陸その後、家康に再興を嘆願した結果、大坂夏の陣で従軍し、戦功を挙げたために岩城吉隆(いわきよしたか)は、信濃・川中島藩に一万石(信濃中村:現、長野・木島平という説もある)の創設を許され大名として復帰する。 

 

 
更に、川中島から「亀田」に転封(てんぷう)となって入部し、岩城亀田藩の初代藩主となるのである。 同様に遠縁に当たる常陸の佐竹氏も関ケ原の敗戦で常陸から出羽秋田に転封になるが、伯父・佐竹義宣(初代秋田藩主)に子供がなかったため岩城吉隆が養子に迎えられ、吉隆は秋田藩52万石の第二代藩主となり大大名になり、後に「佐竹義隆」と名を改めている。 秋田県の岩城地域、「岩城町」の町名は、この岩城氏に因んだ地名なのであり、いわき地方出実の岩城氏は、この秋田の地で脈々と系統を受け継いでいたのであった。 

 

次回は、関連ブログ記事、、 

 

 

 

2021年10月22日金曜日

ふたたび「陸前浜街道」

 







● 親戚筋に面した、
「陸前浜街道」

地蔵尊を過ぎると磐崎小学校があり、付近から坂道を登ったところには磐崎中学校がありますが、此方は既に記した旧湯長谷藩の館跡どもあります。 映画「超高速!参勤交代」のモデルとなった石高1万5千石の湯長谷藩の面影がのこっているとこです。 

 

浜街道で其の先は関船町になりますが、町内の志座というとこに小生の親戚筋である父親の弟、つまり小生の叔父さんが住んでいた所でもあり、浜街道に面していて小さな商いをしていたよころでもあり、子供のころはよく遊びに出かけたものであった。 そして、この親戚の直ぐ裏手今でこそ生活道路に成っていますが、ところが一昔前まで炭鉱専用鉄道が走っていて、今でも道筋として鉄路のあとが鮮明に残っているのです。

 

其の専用線と言うのは、白鳥町から関船町、更には湯本町から湯本駅までで、往時の浜街道、現在の県道56号線にほぼ並行して石炭専用線が走っていたのです。 其の痕跡が今でも残っているが、それは昭和の初期のころまでであったらしい。 因みに、白鳥町より逆の方向は藤原川に沿って、現在の常磐道のいわき湯本IC付近やスパリゾートハワイアンズ周辺にあった藤原鉱区へと石炭専用線が繋がっていたのです。 実はスパリゾートハワイアンズというのは、藤原鉱区跡地でもあったのですが、ただ、このころの藤原炭鉱と言うのは常磐炭鉱ではなくて三井鉱山という別企業が経営していたらしいですね。

 

 

さて、関船町から先になると、金毘羅さんの参道、そして湯本町の温泉街へと入ってゆくことになりJR常磐線の湯本駅になります。 このあたりは、以前に詳しく述べてありますので省略しますが、直ぐのところに温泉街の中心地でもある天王崎の交差点があり、角には湯本温泉の総鎮守である温泉神社があります。 神社の境内からは直角に交差している陸前浜街道が望まれます 望む。このあたりが湯本町の中心街で、温泉旅館や公衆浴場(サハコの湯)や温泉みやげ店や各種商店などが立ち並ぶ旅情が漂う地域に成っています。

 

JR常磐線の線路を跨ぐと現在の国道6号に合流します。 両側を山に挟まれた堀坂(ホッツァカ)通りを下る。 この現在の内郷地区は南北朝時代(鎌倉幕府のあとの時代でいわき地方では岩城氏の支配の攻防があった)や戊辰戦争(官軍が北茨城の平潟に上陸し、いわき地方の諸藩を攻める)の激戦地として知られる古戦場で、下った先には御厩(みまや)宿としてにぎわった同市内郷地区がある。 付近には国宝「白水阿弥陀堂」や常磐炭田発祥の地とされる「弥勒(みろく)沢」など歴史を紡いできた史跡が点在する。

 

 次回は、白水阿弥陀堂

 

 

白鳥町の「袈裟かけ地蔵」

 

 

 新・旧建屋のお地蔵さん、




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袈裟がけ地蔵の実像、





● 陸前浜海道沿いの常磐白鳥町の「袈裟かけ地蔵」

 次には、通常は目立たない処にある「お地蔵さん」のお話です。 陸前浜街道が常磐白鳥町に入って藤原川の蟹打橋を渡ると、間もなく街道に沿った民家のブロック塀に看板があり、其の路地の奥に地蔵尊の石仏がありますが、名称は「駒ヶ沢地蔵尊」といいます。 正式名称は、「袈裟かけ地蔵」ともいいます。

 

実はこちらの民家というのは我家の本家筋でもあり、父親の生家でもあるのです。 本家のことを周辺の人は愛称で「地蔵棚」と呼んでいたが、これは裏手のチョットした高台の棚のようなところに昔からお地蔵さんを祀っていたからにほかなりません。 

こどもの頃は事情で一時滞在したことがありましたが、その時の小さな遊び場として楽しんだところでもあったのです。 当時の地蔵尊は、今と違って古くて今にも壊れそうなお堂に収まっていましたが、勿論、地蔵尊本体は今も昔も変らない姿で、立像で立っていました。 周りの地面は砂地になっていて、ウスバカゲロウ(当時はイッコイッコムシと称していました)の幼虫の小さなすり鉢状の巣が沢山あり、巣の中をほじくり出して幼虫を捕まえたり、悪戯したりして遊んだものでした。 

 

 

この「袈裟かけ地蔵」には色々な文字が刻んであって、正面には大きな刻印で「南無阿弥陀仏」と刻んでありますが、裏面には建立者の名前や時期が刻してありましたが、その時代と言うのは何と江戸・正徳年間(1700年代初頭)と言いますから、今からだと300年以上も前の事になります。 更に刻してあるのは大勢の「〇〇童子」という文字が書かれているのが目立つのです。 童子というのは勿論、子供のことで、当時としては多くの子供たちが何らかの形で災難や不幸になった事が伺えるのです。

 

さて、其の「袈裟かけ地蔵」ですが、

其の看板には奇妙なことが書いてあるのです。 先ず、丈の長さは150cmほどあるそうで、かなり大きめの地蔵尊ですね。

 

『 昔、この地蔵堂に夜な夜な怪しいものが現れて 通るものを悩ましていたそうです。 その噂が殿様の耳にまで入るようになりました。 ある晩、殿様の命を受けた染山某という剣の立つ武士が、怪物退治にやってきました。 地蔵堂に来てあたりをうかがうと 怪物が現れて染山氏へ挑んできたそうです。 氏は、腰の一刀を抜く手も見せずに怪しきものを袈裟がけに切り倒したそうです。 殿へその旨を報告して 夜明け早々に その場を検分すると石の地蔵が袈裟がけに切り倒されていたそうです。 今でもこの地蔵様には、袈裟がけの切り痕があるそうです。 』

 

確かに、赤い袈裟を捲ってみると肩から胴にかけて 袈裟掛けに切り割かれている痕跡(傷跡)が鮮明にあるのです。 スパッと鮮やかにに切られているのに不思議と崩れ落ちることもないようですし、顔立ちは風雪の傷こそ目立ちますが、柔和な仏の顔をしたお地蔵様でした。 

 

 

 

● 民間信仰の地蔵菩薩とは、

 そういえば、白鳥町のお地蔵さんは大勢の「〇〇童子」という文字が書かれているのが目立つのですね。 元より地蔵菩薩、お地蔵さんと言うのは子供の救済の仏さんでもあるのですね。 よく村や部落の辻々で道祖神として子供を護るための仏として信仰されたのでしたが、大元の仏教的な意味合いですと、女性の胎内、とか子宮とかいうような意味合いがあり、意訳すると「地蔵」としているとされています。 大地が全ての命を育む力を蔵するように、苦悩の人々を特に子供たちのその無限の慈悲の心で包み込み、救う所から名付けられたとされています。

 

日本における民間信仰では、道祖神としての性格を持つとともに、「子供の守り仏」として信じられており、地蔵仏にはよく子供が喜ぶような飾り物やお菓子が供えられている。 一般的に、親しみを込めて「お地蔵さん」、「お地蔵様」と呼ばれているのは御承知ですね。

 

 

お地蔵さんは平安期のころから信仰されていたそうで、現在でも観音菩薩と同様に、子供の守護・救済の地蔵菩薩の仏として深い信仰があります。 ちなみに、菩薩は如来に次ぐ高い地位(他に明王、天などがある)にある仏だが、地蔵菩薩は六道(人の善悪の所業など)を自らの足で行脚し、救われない衆生、特に親より先に死去した幼い子供の霊を救い、旅を続けているとされています。

 

幼い子供が親より先に死ぬと、親を悲しませるだけで親孝行の功徳も積むことができないことから、三途の川を渡れず天国にも行けない、賽の河原で鬼のいじめに遭う友とも言われています。 お地蔵さんは、そんな子供たちの災難い合わないように、賽の河原に率先して足を運んでは、鬼から子供達を守り、仏法や経文を聞かせて徳を与え、成仏への道を開いていくという逸話もよくしられています。 

賽の河原とは、親に先だって死んだ子供が苦を受けると信じられている冥土(めいど)の入り口にあるにある河原のことで、ここで子供が小さな石(ケルン;道標や記念として石を円錐形に積み上げたもの)を積んで塔をつくろうとすると、鬼がきてそれを崩し子供を責めさいなむとされているところ。 其の時に地蔵菩薩(じぞうぼさつ)が現れて子供を救い守るという。 賽の河原には子供が積み上げた意志等やお地蔵さんを祀ってある。

此のように、地蔵菩薩は最も弱い立場の人々や子供たちを最優先で救済する菩薩でもあることから、古来より今日まで絶大な信仰の対象となっているのです。

 

 次回も陸前浜街道の名所、

2021年10月14日木曜日

陸前浜街道の成立ちとルート、

 

 

● 昔の街道、陸前浜街道の成立ちとルート、

 各街道の歴史というのは、都(奈良や京都)から全国へ至るルートは既に飛鳥時代には整備されつつあリした。 奈良期の律令時代には畿内(近畿・奈良の都)から現在の奥羽地方・三陸海岸までのルートとして主に太平洋沿岸では東海道、伊勢街道など海道と名づけられた道があり、陸前浜街道もこれらの奥州方面の一部として既に存在していたらしいのです。 奈良時代の当時はすでに石城の国に駅(宿駅、宿場、)が設置されており、平安時代になってからは、既に記録したとおり勿来の関に関する古の多くの歌も残されている。

 鎌倉、室町時代になると浜海道は完全に全ルートが整備され、京の都人や西国の人たちの多くが陸奥国への往来が盛んになってくるのです。 又、江戸期には江戸日本橋を起点とした街道が整備され、正式な街道の名称も誕生しています。 又、陸前浜街道は単なる呼び名の浜海道ではなく、地位や領内の名前をとって水戸までは水戸街道、常陸街道、磐城街道、岩城・相馬街道、また、伊達仙台藩では江戸浜街道など、これらは幕府の通達以外の民間の呼称としても呼んでいたらしい。 

 尤も、民間の呼び方は色々で、道とか道中、路などと愛称で呼んでもいたようでもあり、そして、国の公道として街道の呼称が統一されるのは明治時代に入ってからで、明治5年(1872年)政府通達によって、江戸から仙台までを「陸前浜街道」という正式名称がくだったのでした。 

実際の正式な通達文献によると、『 武州千住駅ヨリ常州水戸ヲ経テ、陸前国岩沼駅ニ至ル迄ノ道筋、自今陸前浜街道ト可称事。 長久保光明、『陸前浜街道地誌』暁印書館、16頁(『改訂維新日誌』第四巻、明治5年の項よりの孫引き) 』とあります。

 実のルートとしては江戸の千住から亘理郡の岩沼(現在の宮城県岩沼市)であり、水戸までは20宿、(水戸街道)水戸から岩沼までは36宿の宿場町が挙げられるが、尚、日本橋ではなく千住が起点になるのは、こちらは日光街道、奥州街道の起点にも成っているという理由からでしょう。 尚、この陸前浜街道は概ねではあるが、現在の国道6号線および高速の常磐道、其れに鉄道ではJR常磐線にほぼ一致しています。 因みに、JR常磐線の下りの終点は岩沼駅になっていて、何故か浜海道と一致しているのです。




 ●       陸前浜街道と名所、

 このように、陸前浜街道という長い道中のほぼ中間に位置しているのが、我らが「いわき湯本温泉」であり、江戸期の温泉番付でも記されていますが、常に上位に記された名湯であったそうで、浜街道ではただ1つの天然の温泉場でもあったのです。 湯本温泉は、多くの旅人や通行人の憩いの場所でもあり、人々が交わる交流の場所でもあったのです。 温泉場は当時は鄙びた湯治場でもあり、農閑期を利用して湯治に訪れた近郷の農民達もいで湯で疲れを癒やす人たちもおれば、参勤交代の途中の大名や武士などのお偉いさんも混在した湯本宿の姿でもあったようです。

 温泉街の中心に「松柏館」(しょうはっかん)という和風の庭園の見事な老舗の旅館がありますが、こちらは本陣宿ともいって江戸期の頃はお大名や上級武士が泊まった旅籠としても有名で、特に参勤交代道中の折には藩主が泊まったところとしても知られています。 

 陸前浜街道のことで、いわき湯本に関することは前に詳しく述べてきたが、ここで浜開度に隣接しているところでいわき湯本近辺の古くからの著名なところを2, 3箇所チョット紹介したいと思います。 

先ずは、浜街道に沿った「能満寺」のことであります。 我らが小学生の頃に学童揃って遠足に出かけた地でもあり、由緒と歴史と自然のあるお寺さんであることは間違いなさそうです。 場所は陸奥国磐城郡磐前村西郷(現在の福島県いわき市常磐西郷町)になりますが、何と言ってもこの寺を著名にしているのは、高僧・「袋中上人」だ育ったところであり、出家した寺院でもあったのです。 更の鄙びた片田舎のお寺に国宝の仏像である「虚空蔵菩薩坐像が安置されているところでもあるのです。

 

袋中上人といえば、琉球沖縄で仏教の教えを説きながら「エーサー踊り」を広めた僧侶であり、尚且、いわき地方の名物である「じゃんがら念仏踊り」を中興した人物でもあったのです。 これは400年程前に、琉球(現在の沖縄)へ渡った際に、琉球の貴族で沖縄の賢人ともいわれる人たちに、現地の人たちと一緒になって易しい仏教(浄土宗)を布教した際に、念仏に節と踊りを付けたものが現地の琉球芸能と融合して出来上がったものが現在のエイサーの元となったと言われているのです。 帰郷してからも故郷の能満寺を起点にして、いわき地方に念仏踊りを広めたとも言われているのです。

 能満寺では毎年のお盆の季節’旧暦の8月半ばに「虚空蔵尊祭り」が行われます。 地元の西郷町じゃんがら保存会の青年達によって奉納が行われています。近年では、琉球沖縄と福島いわき市の交流もはじまり、その一環として本場の沖縄からのエイサー奉納も行われているとのされています。

次回は、陸前浜街道と其の界隈(PartⅡ)

2021年10月12日火曜日

昔の生活路・陸前浜街道

 

 

 

 

● 昔の生活路・陸前浜街道と其の界隈 

 いわき湯本を横断している、陸前浜街道というのは、とにかく歴史的には極めて古く、飛鳥とか奈良時代には既に道筋が出来ていて、古の人々が往来したとされています。

我がいわき湯本でいいますと、まず、温泉街の中心地である天王崎、湯本駅前、そして我家の住宅横、金毘羅さんの参道等がそうで関船町辺りになりますけど、湯本温泉は前述していますが、既に平安時代にはか開湯されていたそうで、旅人や通行人は、此方で温泉に浸かって旅の疲れを癒したのかもしれません。

 

近年映画になった「超特急 参勤交代」では、湯本町ないではないけれど、隣町の白鳥町や上湯長谷(湯長谷藩)が舞台になっているが、江戸までは勿論、この陸前浜街道を利用したに違いない。 ただ、江戸期になると御三家の水戸様の威光に配慮して、水戸から江戸までは水戸街道と呼ばれているのが実情のようです。

 

いわき市内の陸前浜街道といいますと、現在の福島県道56号線に重なるところが殆んどになります。 先ず、常陸の国の茨城県を過ぎると、勿来の関所がある関田宿、JR常磐線の植田駅周辺の植田宿、内陸部に向かって我家の親戚がある釜戸へ向う途中の渡部宿、その後は山中の泉田、白鳥町から湯本温泉の湯本宿、更は内郷から磐城平宿、そしていわきの浜に近い四倉宿、久之浜宿などになります。

 

 

 

 

●浜街道の人流、物流は

 

陸前浜街道は、当地方の気象の特徴を見ても判る通り、内陸部の奥州街道や会津街道に比べると平坦で降雪量が少なく温暖であるのが特徴ですし、通行人たちは通りやすいとも思われます。 特に、古代から中世にかけては人種の種類に関係なく多くの人々が通った形跡があります。 然しながら江戸期にはいると江戸幕府の命で参勤交代が行なわれるようになりますが、実際に浜街道を利用した参勤交代の藩は、街道沿線に居城がある磐城平藩や相馬の中村藩などに限られていたとされています。

 

これは、北から江戸へ向う場合には、街道の出発点(宮城県の岩沼)である仙台藩及び仙台藩より以北の南部藩などの諸大名は、途中にある徳川御三家である水戸藩の領内の通過することを敬遠したとも言われていて、山の多い奥州街道廻りのルートを採ったともいわれています。

又、物流面においても主たるルートは海上が主体であり、内陸の陸路は兎も角、沿岸部では江戸期以前までは日本海のルート(北前船)が一般的だったが、江戸期以降は太平洋ルートが発達する事になります。 そのためも有って浜街道の北端に位置する宮城県の阿武隈川河口の亘理郡荒浜からは、米沢藩などの蔵米が、常時に江戸に輸送されるようになるなど、海路での運輸が主体になるのであった。

 

 次回は 陸前浜街道の成立ちとルート、

湯本温泉の震災の影響

    ● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を   さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に...