2021年5月9日日曜日

更に「湯長谷藩」について、

 

 
  更に「湯長谷藩」について、
 
初代当主の内藤政亮は初め仮居所を陸奥国の湯本村(現在の常磐湯本、いわき湯本、湯本温泉)の熊ノ台という所にに置いたので湯本藩とも呼ばれていたらしく、その時の石高は湯本藩1万石を立て、其の後に居所が湯本から湯長谷に移ったため、湯長谷藩と名が変わった。 
この時の湯本版は仮住まいのようなところだったので、転封とか移封をされたわけではないので、湯本藩と湯長谷藩は全く同じ藩といえる。
 
次期的には江戸初期の1676年頃でこの地に館と周囲に家臣の屋敷が完成し、湯長谷藩(ゆながやはん)の湯長谷陣屋(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)ができていて藩庁を置いたのである。 
尚、湯長谷藩・内藤家は当初1万石、後に加増されて15,000石となって幕末まで継続されたが、城付きの領地が1万石であったのにに対し、その他の五千石は天領(幕府直轄地)などの遠隔地にあったものが加増されているのです。 所謂、分散している領地、飛び地が入っているのですね。 因みに、本家筋の磐城平辺は同時期には10万石とされていました。
 
ところで、湯長谷というのは湯本周辺にある古くからの地域名で、湯本温泉の「湯」と湯本駅の近いところにある長谷寺から「長谷」の字を戴いたもので、主として長谷寺を中心に概ね、北側を上湯長谷、南側を下湯長屋地区とも称しているのです。 湯長谷藩は当然ながら当地の地域名を戴いたものです。 (長谷寺に関しては後述)
 
其の湯長谷藩内藤家は、一万石上だから大名の当たるわけですが、其の種別は親藩・譜代・外様の分類上では譜代大名に当たります。 大名の格としては城持ちではなく陣屋にあたります。
特に各大名には武家の法度によって「一国一城令」や「参勤交代の義務づけを行い、更には江戸時代の初期の頃は徳川幕府との関係の濃・淡によって、大名家の石高や配置にも工夫を凝らした。
 
大名の領地は幕府から直接与えられたもので、其の大名領地を「○○藩」と呼ぶが、これは、幕府が政治上の理由で便宜的に用いられた呼び名であり、つまり幕府の思惑で名付けられたもので正式な公称ではない灯されているらしい。 行政上の正式の区画名称は明治元年(1868年)以降の廃藩置県までの期間であった。
 
 次回は「藩と行政名」




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