2021年5月30日日曜日

我が青春の故郷・・Ⅲ

 

 

● 我が青春の故郷・・Ⅲ

 

前述したように、品川白煉瓦は常磐線の湯本駅前にありましたが、其の湯本駅から常磐線の引込み線を利用して、材料の搬入や製品の輸送を直接行っていたのでした。 現在は旧工場からいわき市常磐岩ヶ岡に移転しているし、そして、品川白煉瓦は品川リフラクトリーズ株式会社と社名を変更しているのですが、会社の本社所在地は東京都千代田区大手町のビルの中にあります。 旧湯本工場の現在の駅前地区は、右手方向に商店街が広がっていてお土産品店などの商店が並んでいます。 

 

工場の社宅は場所については前述していますが、いわき市常磐関船町迎というところになっていて大正時代に会社の社宅として建設されたもので、この住宅は二棟単位に正対している所謂、棟割長屋で、大正時代に建てられたとされています。 大正時代の当時としては水洗トイレが完備しているモダンな建物で、周囲の人々を羨やましがられたらしい。

 

二棟続きの平屋の住宅が凡そ200棟位、同じ向きで並んでいて、中央部には社員や其の家族のための施設である共同浴場があったのです。 浴場の二階は座敷の大広間で、各種集会や宴会場、更には普段は我等子供たちのための勉強会、催し物などが行われたりして思い出深いところある。 当時の様子が、現在でも夢に出てくることがあるのです。


浴場の半地下にはボイラーの燃焼室があって、そこは結構広いスペースがあり、冬の寒い時期などは子供たちのよい溜まり場兼遊び場となり、時には火の番をして石炭をくべたり、運んだりと適度にお手伝いもしたもんであった。 尤も、管理人のおじさんも鷹揚な人で、子供には特に優しかったようでした。

 

ただ、こんなこともありましたね。 親父が風呂は入りに行くと、帰りは冬の寒い時期でも脱いだ洋服を脇に抱えて、フンドシのまま帰宅するのが常であった。 そして、同じ造りの建物が並んでいたため、時折、ぼんやりしている時などは他所(よそ)の玄関へ入ってしまったり、はたまた、自宅を通過してしまって、お袋に「どこまでゆくの・・!!」と、咎められたりして、笑いの種を振りまいたりしていたのを記憶している。

其の品川社宅は、現在は旧住宅、及び浴場は取壊されて鉄筋コンの集合住宅が2棟建つのみとなっている様子である。


 

 次回、 昭和天皇の品川白煉瓦、御訪問・・?、

我が青春の故郷・・Ⅱ

 

 我が青春の故郷・・Ⅱ

尚、品川白煉瓦kkは、かの常磐線の湯本駅の駅前にあって、現在の駅前右側に商店街が整然と並んでいますが、昔はこの辺り一帯にに湯本工場が有って、駅前から八仙地区の鉄道の弧線橋辺りまでが敷地であったし、其処の工場の内部には大きな煉瓦造りの三本の煙突が聳え立っていたものであった。



因みに、其の会社工場からは耐火レンガ、不定形耐火物の製造・販売をはじめ、築炉工事事業も展開している会社で、主力工場は岡山工場(岡山県備前市)であるが、ここ湯本地区にも工場があって、しかも立地が湯本駅前という好条件であった。 





因みに耐火煉瓦とは、勿論、建築用の赤煉瓦などと異なって高温高熱に耐える煉瓦のことでになります。 即ち、端的に言うと耐火物、耐火煉瓦というのは製鉄、製鋼、其れにアルミの精錬や銅の精錬など、金属の精錬や合金金属を造るときは必ず必要になってくる炉材のことです。  



一般に鉄などの金属を抽出したり精錬するには少なくとも1500度以上の熱を利用して熔解することからはじまります。 私の主な仕事は此等の耐火物を利用して溶炉、例えば溶鉱炉とか電気炉、反射炉、その他の窯炉を設計、施工、更には建設中の窯炉の出来具合や進行具合などを監理監督するしごとでした。

耐火煉瓦の主な利用先というのは、金属精錬に関係する製鉄会社やアルミ金属精錬などの全ての会社が対象になり、北海道から九州までの各地に亘ります。 著名な製鉄会社や金属精錬会社では、溶鉱炉とか電気炉、溶解炉、転炉などは聞いたことがあると思いますが、これ等の原材料である鉱石(鉄鉱石や黄銅鉱、アルミのボーキサイト)から金属を取り出すために溶解するわけですが、その時に高温に絶えられるような耐火物、耐火煉瓦が炉の内側に張付けるというものです。



一般に金属というの1500度以上の熱で溶解しますが、これを純粋な金属の場合は融点、若しくは溶解点(メルティング・ポイント)というのがあり、其の高温で真っ赤に解けたドロドロの鉄の温度は、鉄(Fe)の場合の融点は1580度といわれています。 従って、耐火物、耐火煉瓦はそれ以上の過酷な高温度に耐えなければならず、少なくとも通常は2000度前後ともいわれています。




次回は、 「我が青春の故郷・・Ⅲ」



2021年5月26日水曜日

我が青春の故郷・いわき湯本

  我が青春の故郷・いわき湯本

 

さて、其の我が青春時代であるが、いわき市の「いわき湯本」は小生の故郷である。

先ず、「いわき市」は当時は、ひらがなの地域名として珍しがられた。(小生は批判的である) 昨今、多くの市町村が合併する際、さまざまな思惑から「ひらがな名」とした例が多いが、本市はその魁(さきがけ)といえる。 そして、20034月までは日本一の面積を誇っていた。 

 

昭和41年(1966年)の初め磐城地方の中心都市の平市(平・四倉地区))、炭鉱と歴史の内郷市(内郷・白水地区)、温泉と炭鉱の常磐市(湯本・湯長谷地区))、港湾都市の磐城市(小名浜・泉地区)、海浜と歴史の勿来市(勿来・植田地区)、と周辺五市が大合併して現在の「いわき市」が誕生している。

 

それに、本題材に「いわき湯本」と多く記されているが、此れはあくまでもいわき市の湯本という意味で、行政上の正式な名称ではありません。 湯本地区は前述の通り以前は常磐市湯本町であったが、合併していわき市になったことから、旧名が頭につき、正式にはいわき市常磐湯本町という事になり、これが正規の行政上の名称であります。

 

因みに、駅の所在や役所名、それに湯本地区の温泉街の辺りの住所は、全ていわき市常磐湯本町になります。 そして湯本町の周辺地域はいわき市常磐〇〇町ということになり、周辺地域では例えば、筆者の古巣の住所は常磐関船町、直ぐ近い本家筋は常磐白鳥町、他にも周囲の地域では常磐藤原町、常磐水野谷町、常磐上湯長谷町、常磐下湯長谷町、などと呼んでいます。

 

 

さて、私が「湯本」(正式名称は常磐関船町)に在住したのは、小学校入学時代から成人になるまでで、住所としては福島県石城郡湯本町、及び常磐市湯本町地区の時代といわき市が誕生して「いわき市常磐湯本町」(1966年;昭和41年10月1日)になってからの数年間であり、その後の時代以降は既に首都圏に移住していた。 

 

生まれたは満州国・奉天市(今の中国東北部・瀋陽)であるが、終戦後、引揚げてきて父の故郷である石城地方へ戻り、湯本町(現、いわき市常磐湯本)へ住み着いたのであった。 外地で生まれた訳は、親父が中国東北部・旧満州の「南満州鉄道」へ就職し赴任していたためで、小生は昭和1△年に満州・奉天(今の中国・瀋陽)で出生している。

 

住居は、常磐線湯本駅から南の方向凡そ600mくらいで徒歩7~8分、現在の湯本第一小学校の真下で、地名は関船町迎、品川白煉瓦の社宅であった。 親父が故郷へ戻ってきた際、知人の世話で品川白煉瓦へ就職を果たし、併せて、引揚者の我等家族も社宅へ入居することが出来たのであった。

 

 次回も、「我が青春の故郷・・Ⅱ」

2021年5月25日火曜日

男としてのエロス、

 


 

● 男としてのエロス、

 

自慰行為は自分の性的なことで其れは本能であり生理てきなことでもあり、少なからず其の後は罪悪感や虚無感というのは特別はありませんでした。 でも、やはり恥ずかしい行為ということで余り、他の人には言えない内緒のことではありました。 特に、男性の場合は大きく「物」がはみ出しているので、その為も有って不用意に外部からの刺激を受けるときもあり、妙に感じてしまうときもあるのです。

 

 

実は現代においては、此のような性的刺激はそこら中に充満していて、スマホやパソコンで性的なキーワード一つで、エッチ画面がや動画が現れてきて、其のことが要因として特に男性の場合は殆どが定期的に自慰をしていると思いますよ。 

 

ところで、最近では都会の盛り場のあるところでは「覗き部屋」とか「覗きルーム」というのがあります。 数千円を払って薄暗い区切りのある小さな部屋に入るわけですが、勿論、其の時になって女性の裸踊り(ヌードショウ)などを身ながら区割りのある個室で自慰行為をするとか、又は、最近では個室ルームといってアダルトビデオを見ながら、幾らかのプラス料金を払えば女性が現れて手淫で行為をしてくれるところもあります。

 

又、ある風俗業界では「オナクラ」という業種もあって、此れは「オナニークラブ」の事らしくて、其のサービスというのは基本的には個室で女の子が見ている前で、男の客が自分で自慰行為、オナニーをするところだそうです。 これは男の客が女性のセクシー姿を観ながら性的に興奮をし処理をして満足するところということです。 最近ではこのオナクラは性風俗の一種として注目度が高まってきているとされ、意外なほどに人気が有って業界としても急成長してきたとされているのです。

 

 

ところで、特に最近はエロやセックスに関する事柄がチマタに氾濫していますので、従って、特に男性はどうしても自慰やマス、オナニーをする機会が多くなります。 其れが一番顕著なのはやはりネットが盛んになったことで、大きい画面のパソコン上では何時でもその気にならなくても見えてしまう、見てしまう機会が多くがあります。

 

オナニーや自慰行為というのは特に男性は刺激が強いもので、それだけに絶頂感も高いですので、例えば夫婦間の性行為にしても刺激が少なすぎるとして、ついついオナニーに走ってしまうケースも多いようです。 やはり、やり過ぎには弊害もあるようですので心して行うことも必要でしょう。

 
次回は、再び「ふるさといわき湯本について」

 

 

2021年5月22日土曜日

青春のエロス体験、

 




● 青春のエロス体験、

自慰行為を覚えてからチンチンの周りに恥毛が生えてくるし、綺麗な女の子などを見ると何となく眩しく見えてくるようにもなり、即ち、色気が出てきたというか、性に目覚めたということのなるのでしょう。 其のときには男と女の身体の違いなどにも興味をもち、エッチ系の本を買ったり、エロビデをなどにも興味を持ちようになり、それらを見ながらも自慰行為やマスターベ-ションを行うようになったのです。




そして、はじめてエッチ行為をしたのが高校2年生の時だったとお思います。 何かの用事で同じクラブの女の子が私の家と部屋にやってきた時に色々と学校やクラスや、クラブの話をしている時に、タマタマ、机の上に有ったレンタルのエロビデを発見されてしまったのです。 



早速、彼女は「此れって、あの男と女のHビデオでしょう・・?、」僕は慌ててしまおうとしたが間に合わず、彼女が言うには「私、面白そうなのでチョットでいいから見てみたい」というのです。 僕は断る理由もなく内心は彼女と一緒に見たら面白くなりそうだ、などと思いながら二人でテレビの画面を見始まったのです。 


勿論、エッチビデオですから忽ち、男と女の絡むシーンがフンダンに有り、其れも演じている女性ははセーラ服を着ていたので、A子には其れもチョット刺激的だったのかもしれません。 A子は「あたし感じちゃったみたい、ねえ、アタシのおっぱいチョット触って」というのです。 



そうしている内に彼女の手が私のチンチンをモミモミするし、私は彼女の股の間に指を入れるなどして、スッカリ自慰行為ならぬ他慰(・・?)行為をしながら、二人で気持ちよくなったのです。 但し、本当のエッチ行為は女の子が嫌がったし、色々と問題も有りますのでしなかったのですが。



さて、そんなことで私の自慰行為の初体験の時期は中学1年であり、初めて女性とのエッチ行為は高校2年生のときでした。 そして、その後は折に触れて自慰行為もしておりますが尤も、今はネットを開いてアダルト系のキーワードを検索すると直ちにエッチ画面が現れて、その場で男女の絡みシーンやエッチ画像が現れてきます。 そんな画面を見るたびにそして、過激な画面などが映し出されると、ツイツイ男性器のチンは膨れ上がり思わず自慰行為をしてしまう時もあります。



次回は 「● 男としてのエロス、」

2021年5月21日金曜日

男性の性的行為の特調、

 

● 男の性的行為の特調、

 

一般にこれを自慰行為、専門的に言うと手淫(しゅいん)ともいっているようですが、手を使って男性性器を刺激し性的快感を得ることになり、此れが生じて自分の手を使って行う仕草を自慰行為(オナニー)、ほかに他者の手によって行われることを、男の場合は手コキ、女の場合は手マンということになるらしいです。

 

私の場合は何気なしに好きなクラスの女の子を思い受けべ、更に裸の姿を想像するに及んで、下半身を自然といじっていると、知らぬ間に自身のものが熱くなり大きくなって、更に激しくモンでいるうちに体が熱くなって、精液を放出してしまったということが有りました。 このときが私としての初めての男としての性的体験だったのです。

 

 

昔はスマホやパソコンなどはなく、従って、エッチな動画などは見る機会もなく、視覚による性的刺激は漫画本やエロ週刊誌、雑誌などを買い込んで布団の中だそれらをコッソリ眺めながら、自慰行為に及んでいたものです。 

 

そんな、ある日の私自身の実体験ですが、例によって済ませたあとにエロ本を布団の下に置き忘れたのをお袋(母)に見つかって、「こんな本があったよ、あんたも少しは大人の感じになったようだね、」などと、本気とも冗談ともいうような小言を言われて、耳たぶが真っ赤になったのを覚えていますね。

 

このときの性的な感覚というのは体がジーーーンとして痺れるような感覚になり、即ち、これが一種の自然発生の自慰(この場合手コキとは若干異なるようです)、オナニー、即ち、男性ならマスターベーションということになるわけです。

 

一般には、これを専門的に言うと手淫(しゅいん)ともいっているようですが、手を使って男性性器を刺激し性的快感を得ることになり、此れが生じて自分の手を使って行う仕草を自慰行為(オナニー)、又、男の場合は手コキ、女の場合は手マンということになるようです。

 

次回は「● 青春のエロス体験、」





2021年5月20日木曜日

青春期の性的体験のはじまり、

 青春期の性的体験のはじまり、



● 青春期の性的体験のはじまり、

 

一般に、自然に性的行為を覚えるのは男性の場合は10代の半ば頃、即ち、中学生のころになると性的な生理現象が発生するようになるようです。 この頃になると一寸陰部をいじったり、女性のエロチックな場面や部分を想像したり、又、観る刺激に依って愈々それが助長されます。

 

そして遂に、知らぬ内に陰部に手が行ってしまって刺激する内に、性的興奮を覚え射精するようになります。 即ち、これが一種の自慰(この場合手コキとは、未だ若干異なるようです)、マスターベーションになるわけです。

 

 

私個人的には自慰行為やマスターベーションを其の気になったり、したり、覚えたりしたのは中学1年の頃と覚えております。 朝起きる前にクラスの女の子の夢を見ながら、其の夢というのはA子が白いお尻を見せながらオシッコをしている、そんな夢だったと思うが其の時に自分にチンチンがピンと張っている(勃起している)のに気がついたのです。 

 

つまり、其の時に丁度目が覚めたわけですけど、思わず右の手がチンチンの方にいってしまい手でムズムズしている内に、何やら身体が熱くなってチンから何やら熱いものが出てきたので、慌てて寝巻きで拭き取ったのですが、気がつけばその時の其れが私の初めての自慰行為であったのです。

 

次回は「
● 男の性的行為の特調、」

2021年5月19日水曜日

親友の姉のヌードを見てしまって、

 

 

 

● 親友の姉のヌードを見てしまって、

 

それにしても親友の美人で評判の姉は、 顔だけじゃなく体も美人だったので驚いたし、美しいオッパイとキリっと引き締まった尻、其れにお腹のおヘソ下に黒く生えそろった陰毛は見事だった。 臍の下に大きな逆三角形チョロチョロと生えていて、其処には赤味を帯びた女性の秘部、陰部(当時は方言だろうかオマンチョともいっていた)が、美人の姉さんとは思えないほどの淫猥な感じで、今度は逆に見てはいけないものを見たような気がしたのである。

 

つまり、女性の後姿は神秘的な美しさやセクシーさを感じたが、前の部分の各所を見るに及んで、何やらエロというのか卑猥さ、猥雑さを見た感じなのである。 しかし、この時に及んで私の男としての性的な興奮を強烈に感じたのである。 

 

裸の私は下の部分がムズムズ、ムクムクしてきて性的な興奮を覚え、遂にピ-ンと跳ね上がったしまったのである。 そして思わずながらも右手が下の一物に向かって、激しくモミモミ始めてしまったのである。 つまりオナニーと言うか、男の場合はマスターベーションとも言うらしいが。 

 

そして忽ちにして白い男の精液を勢いよく吐き出してしまったのである。 浴室というのはこのあたりの処理には便利で、忽ちにしてお湯で流してしまったのであるが、放出しとたんに性欲は一旦はなくなり、それに応じて冷静になって再び湯船に浸かったのである。

 

しかし、瞼には今の模様が脳裏に焼き付いていて離れることができず、彼女の裸の容姿を思い浮かべると、再び、下の一物がムクムクとふくれあがり、湯船の中でシコシコと二度目のオナニーを始めてしまい、あっさりと興奮状態になり、放出してしまったのである。 男は一度放出すると二度めには時間がかかるとも言われているが、中学生のころの血気精力盛んな時期ではそうでもないらしい。 

 

そんな強烈な余韻が残っている中で、お隣の女性の方、友達のお姉さんは、隣の一人の男の興奮などはツユ知らず、間もなく上がっていったようである。 其のうちにハッと気がつくと、家主の女将が、「まだ入ってんのかい、そろそろ時間ですよ」、「はーーーい」

 

ところで、こんな個人的な男の性を述べるのは、はしたないかもしれないが、以降、我が青春の1ページとして記述したいのです。 

 

 

次回、我が青春のセクシャルな思い出、

 

2021年5月18日火曜日

共同湯での青春の出来事・・Ⅱ、

 

● 共同湯での青春の出来事・・Ⅱ、



何時ものように、玄関のガラス戸をガラガラと開けて、「お邪魔します」と入っていったのだが、今日は男はおろか、女性の入浴者もいなかったので、ゆうゆうと一人貸し切りのような状態で入浴していたのでした。 暫くすると女性の方から一人の方が入ってきた様子なのです。 



「あっ、誰かが入ってきた様子だな、どのような人(女性)なのだろうか」、中学生ともなればソロソロ女性というか女や女の身体に関心が寄せる頃合いの年代でもあった。 



女性は湯船に使っているのだろう、暫くは静寂な空気が漂っていたが、其のうちにバシャバシャと音がして洗面器のカラカラする音が聞こえてきたので、どうやら体を洗い始めた様子なのである。 



前述したように男女の境目は粗末なコンクリートと其の上に木製の板が仕切りとなっていたが、興味本位で何処かに隙間がないかどうか確かめたところ、コンクリと木の境に木のほうが朽ちて隙間を作っていたのである。 早速、チョット卑しい気持ちで覗いてみると、正面の洗い場に真っ白い後ろ姿の女性がハッキリと見て取れるのである。

勿論、この時期になるまで女性の裸身の写真等は男性週刊誌やプレイボーイなどで拝見はしているが、生の、生々しい目の前にリアルな女性の姿を見るのは初めてのことであった。 私は余りの綺麗さ美しさに心を奪われ、動揺して体が震えているようでもあったのです。



裸身の髪を上げた女を目にするのは初めてだったが、それは奇跡的なまでに親密で美しい光景だったといってよかった。 女性のむき出しにされた襟首や首筋、スラと伸びた背中に、何と言ってもふっくらしたお尻のふくよかな姿。 



動きのある女性のまるっきりの裸体を目の前にするのは、私の心を揺り動かし、そして深く戸惑わせた。 それはまるで、新しい大事な何か大発見したような、秘密の泉を発見したような、我を忘れ、更に目を細めて其の姿を聞き耳を立てながら激しい動悸と心地良い深呼吸とともに眺めていた。 



其のうちに女性はなにかの拍子に此方向きになってきたのである。 長い髪の毛を洗い終わって梳かし始まったのであろう、其の姿を見て始めは女性の胸に目を奪われたが、ぽっこり大きく膨らんだオッパイがやや揺れている感じで、実に艶っぽい感じであったが、其の女性の顔を見て大いに驚いたものであった。 



其れは何と、私の友達、同級生の◯◯野君のお姉さんであったのです。

私もよく知っていますし話も当然ながらしていますが、世間でも美人の姉さんといって慕われていた人でもあったのです。 其の親しい友人の姉さんが、あろうことかあられもない姿で目の前にいるのです。  

といって慕われていた人でもあったのです。 其の親しい友人の姉さんが、あろうことかあられもない姿で目の前にいるのです。


次回は、 親友の姉のヌードを見てしまって、

2021年5月17日月曜日

共同湯での青春の出来事、

 

共同湯での青春の出来事、

 

● 共同湯での青春の出来事、

 

さて、この後は筆者の経験的な下ネタ、エロス的な話の関連になってしまうので、聞きたくない、見たくないという御仁は、是非に通過してもらいたい。 我が青春の体験的一コマなんです。

 

我が家で此方の栄田共同湯を使用していた頃は我らが未だ中学生の頃でした。 其れは大抵は社宅風呂がなんかの都合で休日のときや時間が遅くなってからのことでした。 親父といったのが大半でしたが、お袋と同行したときもあったが、男女の浴槽の堺目はコンクリートのと上部に木製の仕切りがあるだけで、上部の方は開放されていたのです。 

 

従って、男性側からすれば女性の方の浴室から話し声や物音がハッキリと聞こえてきたし、時には男女間で話ができるほどでもあったのです。 母親と一緒にゆくときなど、「洗い終わったから、そろそろ上がるわよ」、「はーーい」といった調子であったのです。

 

その後、中学3年生の頃になった頃は一人で行く機会が多くなりましたけど、其れは高校受験のための受験勉強のためで、寒い時期で夜中の11時も過ぎて遅くなったときなど古風な栄田の銭湯へいっては体を温めてから就寝したものであった。

そんな時期に、あの衝撃的な事柄に遭遇したのであった。 


次回は、「共同湯での青春の出来事・・Ⅱ、」

 

湯本温泉の今と昔の共同湯、

 


 湯本温泉の共同湯と青春の記、

 

 

 ● 湯本温泉の今と昔の共同湯、

 

 

実に1600年以上の歴史を持ち、播磨の有馬温泉や伊予松山の道後温泉と並んで日本三古泉にも選ばれている「いわき湯本温泉」、世界でも屈指の毎分5トンもの湯量を誇り、お肌に良いとされる各種成分をたっぷり含んでいます。 「湯本」の地名は平安時代にも遡るとされています。

泉質は珍しい硫黄泉で「美人の湯」として愛されています。

 

温泉街からチョット離れたところには、お馴染みの巨大温泉リゾート施設「スパリゾートハワイアンズ」があり、また同じく温泉街西側にある常磐白鳥町には日本中央競馬会の競走馬リハビリテーションセンターもあり、競争馬用の温泉入浴施設がありますし、テレビ番組でも競走馬が温泉に浸かってる様子が放映されます。

 

温泉街はJR常磐線の湯本駅前から山側に、温泉通り沿いに温泉街が広がってて、各種の旅館やホテルが点在していますが、共同浴場は駅前の足湯設備などの他に3軒存在しています。 その中の「さはこの湯」は観光客用の日帰り入浴施設として人気もあります。

 

 

現在は観光用のサハコの湯の他に駅前の「みゆきの湯」、北方の街外れの「上の湯」など三箇所ありますが、しかし、其れ以前の昭和の時代の頃までは、町営または個人経営の銭湯みたいな共同湯が沢山有りましたね。 小生は其の内の自宅近くの栄田の共同湯をよく利用していましたが、この銭湯にはチョットした生々しい思い出があるのであり、絶対に死ぬまで忘れる事の出来ない記憶になって残っているのです。

 

其の共同湯というのは湯本駅から正面に御幸山(御幸山公園)を見ながら、駅前通を左に、つまり南側に向うと通りの右側の栄田地区にあった。 元の我家からですと湯本第一小学校の直ぐ下にあったのですが、家から共同湯までの距離は凡そ150メートルくらいであったのです。 

 

通常、我家のお風呂は社宅の共同湯(普通の沸かし湯)で済ましていたが、夜遅くなったり何かの都合でお金を払って温泉に浸かった事も有ったのです。 お金といっても当時は10円もしない金額で、今で言う100円程度だったでしょうか。 この温泉共同湯というのは多分ですが個人経営であったのだろう、極めて粗末な造りで、ガラガラっと引き戸を開けると直ぐに脱衣場があり、いちおう番台はあるのだが、其の番台には余り人がいた試しはなく、番台の前に入湯料金のコイン入れがぶる下げているだけであった。

 

更衣室で着替えるとガラス戸を開けると正面にはコンクリートあしらえた湯船が有り、サイドの壁側に洗い場や蛇口が付いているのみの簡素な浴室なのであった。 この共同湯は夫婦家族で商っていたらしいが、日に一度は温泉を止めて清掃等は施していたらしく、粗末な作りではあるが意外と清潔になっていたのは何よりで、そんなことで昼間から利用する人もいたが何と言っても夕方は結構な人が利用していた様子ではあった。 

 

もっとも今では個別の住宅にお風呂が付いているのは当たり前だったが、当時はお風呂のない家も結構有り、其の方々は数日に一度は共同湯で済ましていたようでもあった。 何しろ共同湯の良いところは置くまでも温泉ですから、沸かす手間もいらないし、従って、燃料の心配もいらないことであった。 多分、洗い場などは水道水のみで、水道を沸かしたお湯なども無かったのかもしれない。 更に、此方の栄田の共同湯の良いところは、夜中の12時(0時)ころまで営業をしていたことであった。 これは炭鉱の労務者が交代番で帰宅した人のために夜遅くまでやっていたのだろうとも想像するのです。

 
次回は「 共同湯での青春の出来事、」





2021年5月16日日曜日

内藤家と菩提寺、旦那寺 「鎌倉光明寺」


内藤家と菩提寺、旦那寺 「鎌倉光明寺」

 

記述内容がチョット反れるが、鎌倉の材木海岸に沿って立派な大伽藍を持つ「光明寺」がある。  寺院の山門は、余りの大きさに真下に立つと威圧されるようで、それもそのはず、高さは30m(ビル八階建てに相当)ほどもあり、「関東一」の規模とか。

 

因みに、山門(三門)はお寺の門のことであり、お寺の門には総門というのがあるが、これは入り口を示す門のことで、主もたる門は「山門」である。 其の二階部分には釈迦三尊像や四天王、十六羅漢などが祀られ、同時に、見晴らしは由比ガ浜、江ノ島、富士山の眺めはすばらしく、彼岸の中日には西方極楽浄土をさながら見る思いがするという。 

 

その巨大な山門をくぐると、直線状の石畳の正面に本堂があり、ここでは大殿と称しているらしい。 この寺院は、「天照山蓮華院光明寺」といい、関東における浄土宗の大本山である。 創立は、鎌倉時代初期の西暦1243年といわれ、寺を開いたのは浄土宗三祖といわれる「良忠上人」である。  浄土宗の宗祖は、ご存知「法然」であるが、その弟子が聖光上人といい、その又弟子が石見国(島根県)出身の「良忠上人」であった。 そして本堂の横奥に「内藤家」の廟所(墓所)があるのです。

 

実は、ここ光明寺には磐城・平藩の初代から日向・延岡藩の幕末まで、内藤家の代々の墓所が一同に祭られているのです。  大型の宝篋印塔(ほうきょういんとう)や六観音、六地蔵など、200基以上の石像遺品が美事に並んでいる。 草むらに横一列に順よく並ぶ墓石・石像群は美的でもあり、壮観であるが、一種異様な光景でもあり鬼気迫る迫力ですらあった。

このように江戸初期から末期まで代々の大名の墓が全部一箇所に揃っているのは大変珍しいという。

鎌倉市の史跡に指定されている。

 

 

筆者の実家・田舎は福島県「いわき市」で、江戸期においてはこの地方を磐城平藩と称して、鳥居、「内藤」、井上、安藤の四大名が統治していた。  中でも江戸初期から中期にかけての内藤家は永く、1622年から1747年まで125年間、六代の長きに亘って治めていた。  内藤家は徳川家譜代として戦国期より活躍し、「大阪の陣」では江戸城の留守居役を任されるなど、江戸幕府を開くにあたり功績は大きい。 

 

江戸中期六代目・内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられた領民の不満が鬱積していた。

そして遂に元文3年(1738年)に「元文事件」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。

 四方から平城下に押しよせた一揆勢は凡そ2万人、富豪や商家を打ち壊し乱入、 役所、獄舎をも襲った

といわれる。 

 

その期間は4日間にも及んで武士団に抗し訴え続け、ついに納税減免に成功したという。 だがこの騒動は幕府の知れる事となり、領主・内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。

 

去るに及んで次の歌を残したという・・、

 

『 日に向ふ 国に命を 延べおかば 

         またみちのくの 人に逢うべし 』 

 

 九州、日向延岡・内藤藩は、磐城平藩と同様の年月(124年)に亘り藩政を治めている。   幕末、薩摩藩を筆頭に倒幕派の南九州諸藩の中にあって、徳川譜代藩であるがゆえに佐幕(幕府を補佐する)の立場を採らざるをえず、苦況に立たされるのです。

 

 内藤家・江戸上屋敷は、江戸城外郭門の「虎の門」に続く外堀辺りにあった。 当家は、磐城・平藩より財政難の連続で、巷では内藤貧乏の守と悪態をつかれ、そのあまりの質素な暮らしぶりを揶揄されたほどの内藤本家であった。  しかし、七万石の小藩ながら、その後もなお私財をつぎ込み城下町の再興や学問振興に尽くすなど民衆に支持された名家でもある。

 

そんな生活ぶりの中、内藤家は代々「浄土宗」を崇拝信仰し、その菩提寺は、鎌倉・材木座の「天照山蓮華院光明寺」であった。  「光明寺」は浄土宗の七大本山の一つで、江戸時代には徳川家康によって関東十八檀林(だんりん・仏教の学問所、平安時代の檀林寺に始まるが、学問所を檀林と呼ぶようになったのは室町末期で、近世は各宗で設けていた)の一つに数えられ、その筆頭に位置づけられた名刹である。

 

 延岡城の内藤家は、日向灘の海に面した高台にあるとか、

 江戸住まいの日々、彼岸や盆の参詣のひと時には、内藤家の人々は鎌倉・材木座の海に重ねて、日向灘を思いだしていたに違いない。

 

次回、湯長谷藩と陣屋遺構と我が家系

2021年5月11日火曜日

湯長谷藩という「藩と行政名」

 

 

湯長谷藩という「藩と行政名」

 

ところで、徳川幕府は大名が守るべき規則となる「武家諸法度」(慶長20年・1615年)、すべての僧侶が守るべき規則となる「諸宗寺院法度」(寛文5年・1665年)、朝廷に対して統制を図るための「禁中並公家諸法度」(慶長20年・1615年)をそれぞれ設け、幕府体制下に組み入れることで安定した政権を図った。 また、幕府は大名統制として、大名の所領を没収する改易、領地を削減する減封、領地を他へ移しかえる転封、をそれぞれ実行することができた。

 

徳川幕府は、江戸(江戸城)に政治の中枢である幕府を置くに当たって、守りを固める必要があった。 即ち、江戸に近い地域に幕府領(幕府直轄領+旗本領)あるいは関ヶ原の戦い以前から徳川家の縁戚あるいは家臣であった親藩・譜代の大名をできるかぎり配置し、江戸から遠い地域には徳川家とは無縁か、かって敵対していた所謂、外様大名達を配置する方針を採った。 磐城平藩や湯長谷藩は、いわき地方の外様大名である相馬家や伊達家などに対する最前線的な地理的条件を備えていたと言える。

 

又、大名所領の規模は石高であらわされた。 「石」とは土地の生産性の基となる単位で、たとえば藩などに仕える武士が100石取りと言われれば、それは武士に与えられた給与のことで、大名・旗本の収入や江戸城修理など、幕府の諸役負担の基礎ともなった。

 

諸法度にともない幕藩体制の一般的傾向として、特に譜代大名は外様大名に比べたびたび転封が行われ、いわき地方においてもこの傾向がみられた。 湯長谷藩の本家筋である磐城平藩では、江戸中期の(1738年)発生した百姓一揆が原因で(元文百姓一揆)、それが処罰的な意味も含め、六代藩主内藤政樹の時代の1747年に、内藤家は九州宮崎の日向延岡に転封となっっていて、親藩である磐城平藩の内藤家は消滅している。

 

一方、湯長谷藩は改易や転封にも合わず幕末まで其の名を残し、幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、奥羽列藩同盟に加わったことを理由に1000石を減封され、明治の政権になった1871年(明治4年)の廃藩置県で湯長谷県となり、磐城平藩は平県、磐前県を経て福島県に編入されたのです。

 

次回、内藤家と菩提、鎌倉光明寺、

磐城平藩の歴代藩主について、

 

磐城平藩の歴代藩主について、

 

江戸時代からの磐城平藩の藩主は先代の鳥居家であったが、その後は山形に転封後、磐城に来たのが「内藤氏」であった。 これ以降にて磐城平藩は7万石となり、内藤家は永く、江戸初期から125年間、六代の永きに亘って治めていた。 六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられ、領民の不満が鬱積していた。

 

そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。 その責任をとって内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。

去るに及んで・・、

 

   『日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡) 

                     またみちのくの(磐城) 人に逢うべし』 

と詠んでいる。


江戸期最後の大名は「安藤氏」で、入封後、藩校・「施政堂」を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育を行うなど善政を施している。 特に、歴代藩主の中で最も有名なのは、第五代藩主・「安藤信正」であった。 幕末の桜田門外の変の後、老中として幕政主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門の変」(江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件で、この結果、安藤は負傷し、老中を罷免された)で失脚した。 現在は「松ヶ岡公園」に銅像が残る。

 

その後の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟として西軍と決戦、鳥居氏築城から260余年を経て、いわき平城は落城している。

昭和41年、5市(平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市)、4町(四ツ倉町、小川町、遠野町、久ノ浜町)、 5村(箕輪村、赤井村、三和村、好間村、大久村)が大同合併し、現在の「いわき市」が発足している。

 

次回は湯長谷藩という「藩と行政名」

 

2021年5月9日日曜日

更に「湯長谷藩」について、

 

 
  更に「湯長谷藩」について、
 
初代当主の内藤政亮は初め仮居所を陸奥国の湯本村(現在の常磐湯本、いわき湯本、湯本温泉)の熊ノ台という所にに置いたので湯本藩とも呼ばれていたらしく、その時の石高は湯本藩1万石を立て、其の後に居所が湯本から湯長谷に移ったため、湯長谷藩と名が変わった。 
この時の湯本版は仮住まいのようなところだったので、転封とか移封をされたわけではないので、湯本藩と湯長谷藩は全く同じ藩といえる。
 
次期的には江戸初期の1676年頃でこの地に館と周囲に家臣の屋敷が完成し、湯長谷藩(ゆながやはん)の湯長谷陣屋(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)ができていて藩庁を置いたのである。 
尚、湯長谷藩・内藤家は当初1万石、後に加増されて15,000石となって幕末まで継続されたが、城付きの領地が1万石であったのにに対し、その他の五千石は天領(幕府直轄地)などの遠隔地にあったものが加増されているのです。 所謂、分散している領地、飛び地が入っているのですね。 因みに、本家筋の磐城平辺は同時期には10万石とされていました。
 
ところで、湯長谷というのは湯本周辺にある古くからの地域名で、湯本温泉の「湯」と湯本駅の近いところにある長谷寺から「長谷」の字を戴いたもので、主として長谷寺を中心に概ね、北側を上湯長谷、南側を下湯長屋地区とも称しているのです。 湯長谷藩は当然ながら当地の地域名を戴いたものです。 (長谷寺に関しては後述)
 
其の湯長谷藩内藤家は、一万石上だから大名の当たるわけですが、其の種別は親藩・譜代・外様の分類上では譜代大名に当たります。 大名の格としては城持ちではなく陣屋にあたります。
特に各大名には武家の法度によって「一国一城令」や「参勤交代の義務づけを行い、更には江戸時代の初期の頃は徳川幕府との関係の濃・淡によって、大名家の石高や配置にも工夫を凝らした。
 
大名の領地は幕府から直接与えられたもので、其の大名領地を「○○藩」と呼ぶが、これは、幕府が政治上の理由で便宜的に用いられた呼び名であり、つまり幕府の思惑で名付けられたもので正式な公称ではない灯されているらしい。 行政上の正式の区画名称は明治元年(1868年)以降の廃藩置県までの期間であった。
 
 次回は「藩と行政名」




2021年5月8日土曜日

龍勝寺と湯長谷藩 

 


7、 龍勝寺と湯長谷藩 

 

我家の菩提寺である龍勝寺の奥まった高台に地元の中学校である磐崎中学校がある。 この辺り一帯は江戸時代の湯長谷藩があった地域でもあるのです。 現在は湯長谷城址跡、湯長谷藩屋敷跡が残すのみであるが、其の当時の江戸時代の初期の頃は本藩は磐城平藩と言っていたが、その他にも支藩の湯長谷藩があったのです。

 

元より磐城平藩は内藤家から始まるが、内藤家といえば徳川本家との繋がりも深く徳川親藩の一つでもあった。 江戸表には江戸城の直ぐ近くの虎ノ門に江戸の上屋敷があったことでも名藩の一つに数えられるとされています。

 

 

初代藩主となったのは内藤政亮で、延宝4年(1676年)に湯長谷城を築城し藩庁を移転、城下町の建設に尽力したといわれています。 初代藩主・政亮は藩政の基礎を固め、記録によっても「うまれつき悠にして、行跡よし、家臣を助け育て奢ることしない。誉れの将なり」と高く評価されていたらしいのです。


本藩にあたる磐城平藩内藤家は、6代藩主・政樹のときの延享4年(1747年)に日向延岡に転封され本藩の内藤家はなくなるが、支藩である湯長谷藩の内藤家はそのまま領地を保ち、幕末まで存続することになるのです。 

特に10代藩主・政民は藩校・致道館を創設して自ら四書五経を講じたとされ、幕末期まで特筆するような事件も発生していないし、地元では「名藩主が多い藩」とされているようです。

 

この「湯長谷藩」は、本家の磐城平藩の内藤家の分藩として成立しましたが、陸奥国の15000石の小藩ではあるが、初代政亮から13代政養で明治維新を迎えるまで転封や移封もありませんでした。

 

2014年には其の「湯長谷藩」を題材にした歴史エンターティメント映画・「超高速! 参勤交代」が公開されました。 映画は4代藩主の内藤政醇(まさあつ)の時の時代を表したもので、実名の主人公である政醇の菩提は藩の寺でもあった龍勝寺に祀られています。

 

 


湯本温泉の震災の影響

    ● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を   さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に...