2021年8月31日火曜日

いわき市南端の「勿来の関」の古人達、

 





y-16-4.jpg

y-16-5.jpg
              勿来の関と名所の桜、




● 東北磐城の玄関口、奥州浜街道の「勿来の関」、

いわき湯本から旧国道(6号)を経て、茨城県の県境でもある「勿来」へ来たると、国道から勿来海岸の反対側に小高い丘があり、その一角に古来の「勿来の関」がある。

東北の三古関(白河の関、念珠関=鼠ヶ関)の一つであり、因みに、念珠が関(ねずがせき)という、この古関は源義経と弁慶ら主従一行が平泉に逃避する際に通過したことでも知られる。 

「勿来の関」は、往年の東北の都・多賀城へ通ずる、陸前浜海道の東北(蝦夷)への入り口として重要な関所であった。 古記には大和朝廷期にヤマトタケルが蝦夷(えみし)の蛮族を征伐するのに通った、との記載もあり、既に4世紀ごろから主要街道として機能していたという。 

平安期の後期(1051年)においては東北・陸奥の国で一大動乱(前九年の役、後三年の役)が勃発する。 朝廷はこれを治めるべく源氏の棟梁「源義家」(八幡太郎義家)を陸奥国守として任地の陸奥国に赴かせる。 この時、源義家は「勿来の関」で休泊の時、一句詠んでいる

『 吹く風を 勿来の関と 思へども 道も背にちる 山桜かな 』

平安期の頃は東北(蝦夷:エミシ)の戦乱期も加わって、この浜海道は大往来時代を迎えている。 近くには「三箱の湯」(現、湯本温泉)もあって、高家、武人、都人、文人墨客(万葉人)等も多く行き来していた。

太洋を望む美景の丘・「勿来の関」は、奥州三古関 と呼ばれており、古くから万葉集の中でも詠まれ、その後も多くの歌人らによって詠まれたのがこの地である。 この周辺は古来より風光明媚な地にあって、松のこずえ越しに太平洋が一望でき、今でも山桜の名勝としても有名で、県立自然公園に指定されている名勝である。

次回、「勿来の関」を詠んだ古(いにしえ)の歌人達



2021年8月23日月曜日

いわき市の詩人・「草野心平 Ⅱ」

 



 

 

● わが故郷のいわき市の詩人・「草野心平 Ⅱ」

 更に、草野心平のこといなりますが、

  先ず、詩集「第百階級」の扉には、四行の題詞が書かれている。

 

 「蛙はでつかい自然の讃嘆者である」

 

 「蛙はどぶ臭いプロレタリヤトである」

 

 「蛙は明朗性なアナルシストである」

 

そして、

『 蛾を食ふ蛙はそのことのみによつて蛇に食はれる。人間は誰にも殺されないことによつて人間を殺す、この定義は悪魔だ。蛙をみて人間に不信任状を出したい僕は、それ故にのみ“かへる”を慈しみ、嫉妬の如き憎む』、とある。

 

「かえる」は、自然の食物連鎖の中に組み込まれ、他の生物の食料になる可能性の中にいることが、他の生物を食料とすることの正当性がある。 

 

人間は自然の枠外に出て、しかも食物連鎖の頂点に立つ。 従って、もはや正当性はない。 

 

互いに殺しあうことによってのみ、その正当性を無理やり見出す。 

その幸、不幸を唱えるならば、悪夢を持たない「蛙」のなんと幸福なこと・・!!

と「蛙」を賛美しているのである。

 

 

草野心平は、1903年石城郡上小川(現いわき市小川)で生まれている。 其の兄も詩人で、心平に大きな影響を与えたという。

 

 旧制磐城中学(現、磐城高校・・小生の大先輩)、慶応大学普通部の入・退学を繰り返し、中国に渡って嶺南大学(現、中山大学)で学ぶ。 

帰国後、詩を書きながら貧窮の中で各地を転々としながら、編集者、記者、宣伝部員から貸本屋、焼鳥屋、居酒屋の経営まで手がけるが、商売上手ではなかったようである。 

 

そんな中で、宮沢賢治と八木重吉(日本の詩人:明治31年、町田市相原町に生まれる、キリスト教徒、肺結核により29歳の若さで死去)を広く世に紹介し、高村光太郎との温かい友情は終生続いたという。

 

詩人としては、詩集「第百階級」、「定本・蛙」などで評価を確立し、蛙を通して生命力への賛美と自然のエネルギーをうたう「蛙の詩人」と親しまれた。

 

それが縁で、隣の福島県川内村(天然記念物モリアオガエルの生息地)の名誉村民になって毎年村を訪れ、自分の蔵書を村に寄付しているという。

 

いわき市名誉市民、日本芸術院会員、文化功労者のほか、昭和62年には文化勲章受賞。 

昭和63年(1988年)1112日、85歳で生涯を終えている。

 

  

次回、いわき市南端の「勿来の関」

 

2021年8月22日日曜日

いわき市の詩人・「草野心平氏」

 


、いわき市の詩人・「草野心平氏」




y-16-2.jpg

y-16-3.jpg

y-16-1.jpg





● 我が大先輩、いわき市の詩人・「草野心平氏」

「いわき」を語る時、一人の偉大な人物がいた。 しかも、筆者の高校(当時は旧制中学)の大先輩でもあるから是非紹介しておきたい。 かえるの詩人・「草野心平」氏である。







『春の歌』 詩 草野 心平



かえるは、冬のあいだは土のなかにいて、春になると地上に出てきます。

そのはじめての日のうた、



『 ほっ まぶしいな。

ほっ うれしいな。

みずはつるつる。

かぜはそよそよ。



ケルルン クック。

ああいいにおいだ。

ケルルン クック。



ほっ いぬのふぐりがさいている。

ほっ おおきなくもがうごいてくる。



ケルルン クック。

ケルルン クック。 』





「かえるのシンペイ」は・1987年の文化勲章を受章している。



1931年、東京・麻布十番で焼鳥屋台「いわき」を開店した、

1952年、文京区に居酒屋「火の車」を開店、

1957年には新宿にバー「学校」を開いている。

かえるのシンペイは、やはりかえる同様、水に縁があったようだ。



それでも貧乏神はシンペイの元を去らず、未だ面識のなかった宮沢賢治あてに「コメ1ピョウタノム」と電報を打った。  賢治に電報を打ったのは、彼が農場を持っているのを知っていたのである。

そして、宮沢賢治を見抜いた草野心平の凄さ、





この賢治のことをシンペイは、



『 現在の日本詩壇に天才がいるとしたなら、私はその名誉ある天才は宮沢賢治だと言いたい。 世界の一流詩人に伍しても彼は断然異常な光を放っている。 彼の存在は私に力を与える(中略)、私は今只、世間ではほとんど無名に近い一人のすばらしい詩人の存在を大声で叫びたいのである。 (中略)今後、彼はどんな仕事をしていくか、恐るべき彼の未来を想うのは私にとって恐ろしい悦びである。 宮沢賢治の芸術は世界の第一級の芸術の一つである・・』・・と断言している。 そして、若き天才・宮沢賢治の死後まもない昭和8年、「日本詩壇」に載ったシンペイが送った追悼文の末尾に、『最後に一言ドナラしてもらえるならば、日本の原始から未来への一つの貫かれた詩史線上の一つに、類まれなる大光芒が「宮沢賢治」であることはもう断じて誰の異義をもはさめない、一つのガンとした現実である。』 、と書いている。   





宮沢賢治の偉大さと、又それを見抜いた草野心平の凄さがよく理解できるのである。 草野心平はただ単なる「蛙の詩人」ではなく、彼こそ原始から未来への線上で大光芒を放つ詩人であり、世界に誇る哲学的詩人である。 宮沢賢治と並ぶ、もう一人の「東北人らしい感性豊かな人の代表」なのである。

「草野心平」はただ単なる「蛙の詩人」ではない、偉大なる「蛙の詩人」なのである。





次回も、いわき市の詩人・「草野心平 Ⅱ」


2021年8月20日金曜日

いわき市の小史について

 



● 簡単な「いわき」の小史について


 先にも記載したが、いわき地方は元は石城、石城郡と称し、小生幼少の頃は「福島県石城郡湯本町」であった。 石城の名称は歴史的には古く、飛鳥奈良時代までに遡るといわれる。 


当時は常陸国(ひたちのくに)属し石城郡(いわきのこおり)と称し、大化の改新後、陸奥国・略して「みちのく」に編入され、同時に「磐城」に改名している。(明治になって周辺合併で、再び「石城郡」となる) 平安後期には、岩城氏が石城地方に勢力を得て、中心を「岩城の平」とした。 


 


岩城氏は常陸・平氏 (ひたちへいし:武士の発生の大元と言われる常陸の平将門の同系)の血を汲む名族であり、その子孫が奥州に土着したことが岩城氏の始まりと言われ、その祖先の名を戴いて「平」としたらしい。 岩城氏は、平安期の奥州藤原氏(清原氏)との関係も深く、石城一帯の領国支配に成功する。


 


戦国期は、小田原城攻めで豊臣秀吉に謁見し領土は安堵されるが、関ヶ原の戦いでは西軍の石田三成側に加担したが、結果として徳川家康に降伏して磐城12万石は除封され、お家は断絶となる。 尚、当時の岩城貞隆は、後に信濃・川中島藩1万石の創設を許される。 又、その息子である岩城吉隆は出羽秋田・亀田藩に封され藩主となったが、子供のなかった伯父・佐竹義宣(常陸の国より転封・初代秋田藩主)の養子に迎えられて秋田藩52万石の第二代藩主「佐竹義隆」となっている。


 


江戸期においては、鳥居氏、内藤氏、井上氏、安藤氏の歴代藩主が其々入封している。 鳥居氏は、あの有名な関ヶ原の戦いの前哨戦といわれる「伏見城攻防」での功により、直接家康より賜っている。 この時期に「磐城平城」が築城されている。 


 


磐城平城は、「いわき駅」裏手の城山地区にあった城で、今は住宅地となり昔の面影は城址が僅かに残るのみである。 当時の姿は「磐城名物三階櫓、竜のお堀に浮いて立つ」と詠われ、この城の主目的は仙台藩・伊達氏の押さえにあったとされる。  平の街並も純然たる城下町で、今も鍛冶町、紺屋町、材木町といった往時の職人街と思しき懐かしい地名が今も各所に残っている。




次回は、いわき市の著名な文人、




2021年8月11日水曜日

いわき平の通学時の思い出、

 




● 高校時代のいわき平への通学時の思い出、、

「いわき市」は、福島県浜通りの南東に位置し、東は太平洋に面し、西は阿武隈山地に面し7割が山間部で、残る3割に居住区が分散する。  東北地方としては珍しく涼夏暖冬地域でもあり、比較的寒暖の差も少なく、山間部を除いてめったに雪は降らない。  又、地盤が硬いために大きな地震が起き難いと云われるようである。



この、いわき市の中心、浜通り地区の最大都市が「平地区」である。  行政、商勢圏とも今、再開発の発展途上にあるようで、駅前辺りの景観がガラリと変わるらしい。  駅名は、近年の平成6年(1994年)、常磐線・平駅から市民の要望により「いわき駅」に改名している。





常磐線・平駅は、小生が学生の頃の昭和30年代前半頃までは、まだ、SL・蒸気機関車であった。 黒煙を吐きながら、力強く前進する蒸気機関車の列車が懐かしい。 学生当時、平駅から湯本駅間を通学(県立磐城高校)していた頃はまだ客車2両編成の始発のS・Lでした。 従って、発車してもユックリ発進したもんで、そんなときに小生は時折、改札を通らないで駅舎の端から線路沿いに追いかけて行ってデッキに飛び乗ったものであった。 車掌も鷹揚なもんで、発車してからも「ほら急げ、乗れなくなるぞ」などと、けしかけてもらったものです。



3学年頃になって気動車(ジーゼルカー)になり、発車速度も速く、自動ドアーになったため、その楽しみも出来なくなったが、後の昭和30年後半には常磐線の平駅まで電化された。 その時も、電車の速さに驚いたものであった。 因みに、当時のSLで平⇒上野は7時間前後かかっていたが、現在では2時間少々のようである。





次回は、 「いわき」の小史について





2021年8月8日日曜日

いわき市と「いわき平(たいら)」

 







● いわき市の中心都市・「いわき平(たいら)」

小生が青年期までお世話になったいわき湯本は広域にはいわき市になるが、其のいわき市は国内での昭和の大合併と言われる時期に行われて誕生した。  併せて、大型合併とひらかな文字の行政名の先駆けともいわれる・福島県の「いわき市」ですが、 先ず、「いわき市」は1966年(昭和41年)10月1日 - 昭和の新産業都市建設促進法に則って、周辺都市の磐城市、内郷市、常磐市、平市、勿来市、それに周辺町村などが新設合併し、いわき市が成立している。 結果として当時としては面積が日本一広い市となった。



当時は、ひらがなの地域名として珍しがられたものでした。 筆者個人としても地名や行政名というのは地域の歴史や文化を伝える名称でもあり、「漢字」というのは其れ自体の意味を持つが、「ひらがな」というのは」それ地域に対して何の意味をもなしてはいませんね、そんなことで小生は批判的なのです。          昨今は、多くの市町村が合併する際、さまざまな思惑から「ひらがな名」とした例が多いが、本市はその魁(さきがけ)ともいえるのです。 そして、2003年4月までは日本一の面積を誇っていた。 



昭和40年の初め磐城地方の中心都市の平市(平・四倉地区))、炭鉱と歴史の内郷市(内郷・白水地区)、温泉と炭鉱の常磐市(湯本・湯長谷地区))、港湾都市の磐城市(小名浜・泉地区)、海浜と歴史の勿来市(勿来・植田地区)、と周辺五市が大合併して現在の「いわき市」が誕生している。



しかし、2003年4月、静岡市と清水市の合併で、最大面積を持つ市の座を明け渡すこととなり、現在は、岐阜県高山市が日本一面積の大きな市となっている。

ちなみに本年(2006年)では、地域面積は第13位になっているようだが、が最近の平成の大合併で、今後多いに変動する可能性はある。





 2010年頃の全国市町村の面積 (広域5 km2)



1 岐阜県 高山市 2,177.67

2 静岡県 浜松市 1,511.17

3 栃木県 日光市 1,449.87

4 北海道 北見市 1,427.56

5 北海道 足寄郡足寄町 1,408.09





次回は、 いわき市いわき平の地域性、

2021年8月5日木曜日

神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社

 



神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社


厚金1

厚金2

厚金3

厚金5-r






●  我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社



さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。 

 

江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。 



特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。



等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。





 

蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。 



江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。









 ● 「金毘羅子世羅天由来記」



現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。





『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。

一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。

翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。 



享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興

文化十一年 家斉公・厄年の為 再興

大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』 





因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。







次回は、いわき湯本の「いわき市」について、





●  我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社




さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。 


 


江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。 




特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。




等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。






 


蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。 




江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。










 ● 「金毘羅子世羅天由来記」




現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。






『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。


一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。


翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。 




享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興


文化十一年 家斉公・厄年の為 再興


大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』 






因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。








次回は、いわき湯本の「いわき市」について、





●  我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社




さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。 


 


江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。 




特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。




等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。






 


蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。 




江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。










 ● 「金毘羅子世羅天由来記」




現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。






『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。


一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。


翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。 




享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興


文化十一年 家斉公・厄年の為 再興


大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』 






因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。








次回は、いわき湯本の「いわき市」について、




湯本温泉の震災の影響

    ● いわき湯本温泉も例外なくの震災の影響を   さて、其のいわき湯本ですが、一般に湯本温泉に来る観光客は、勿論、まずは温泉であり、その後は近隣のスパリゾートハワイアンズやいわき市石炭・化石館ほるる、其れに隣町の白水阿弥陀堂があり、其処で遊覧や観光を行うのが通例です。 更に...