2021/08/06
神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社
● 我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社
さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。
江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。
特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。
等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。
蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。
江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。
● 「金毘羅子世羅天由来記」
現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。
一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。
翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』
因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。
次回は、いわき湯本の「いわき市」について、
● 我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社
さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。
江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。
特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。
等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。
蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。
江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。
● 「金毘羅子世羅天由来記」
現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。
一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。
翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』
因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。
次回は、いわき湯本の「いわき市」について、
● 我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社
さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。
江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。
特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。
等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。
蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。
江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。
● 「金毘羅子世羅天由来記」
現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。
一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。
翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』
因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。
次回は、いわき湯本の「いわき市」について、
● 我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社
さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。
江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。
特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。
等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。
蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。
江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。
● 「金毘羅子世羅天由来記」
現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。
一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。
翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』
因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。
次回は、いわき湯本の「いわき市」について、
● 我が住まいの神奈川県厚木市の山上に鎮座する金毘羅神社
さて一方、小生が現在住んでいる神奈川県厚木市鳶尾の団地後背部にある鳶尾山系、標高250~300mの丘陵地の山頂に「金毘羅神社」がある。 こちらの社宮は昨今、風塵の中に忘れ去れ、社殿はトタン屋根の古びた木造で、物置のような存在に成り果てていた。 小生、今でも週、数回のトレーニング・ウオークの際には必ず参拝をするように心がけているが、その面影は微かに残しているが残念でならない。
江戸期頃の往年の山頂の金毘羅宮は立派な本殿を有し、1月10日、5月10日の縁日には近郷近在の氏子達で大賑わいであったと言う。 特に、氏子たちが大勢住んでいる中荻野地区(現、鳶尾地区)は。
特に、実家である田舎のいわき湯本の「宮」の賑わいを思うと残念でならない。 歴史的遺産や其れにまつわる祭礼や行事を永く存続させることの如何に大事か、そして難事(なんじ)であるかを象徴するようでもある。
等と思っていたところ、最年の令和の年代になって鳶尾山頂きの金毘羅宮は、社殿から周囲の境内は小規模ながら改装されました。 真っ赤な鳥居と狛犬などを配して、立派に新調再建されたのです。
蛇足ながら前項でも記したが、丹沢大山(おおやま)は神奈川県の屋根、丹沢山塊の東南の一角に聳える標高1251mの山で、古くから雨乞いの信仰対象として崇められた。 中腹ならびに山頂には五穀豊穣、商売繁盛の神様として広く庶民の信仰を集めた大山・阿夫利神社がある。
江戸古典落語に「大山参り」があり、当時の大山参詣と賑わいの話は有名である。 尤も、隆盛を極めた大山参りの参拝目的は、現在の阿夫利神社ではなく、中腹にある大山寺(大山不動、石尊大権現)の参詣が目的だったのだが、江戸期の頃の川柳にもありますが、「大山のヘソのあたりに不動堂」でも認められ通りですね。
● 「金毘羅子世羅天由来記」
現在の金毘羅宮の社殿の正面には案内板があって、宮の縁起・由緒が以下のように書かれてある。
『 鳶尾山・金毘羅社は慶安三年(江戸初期・1650年)養徳寺・心外悦和尚の建立によるものである。 この時代、この地域は伝染病が猛威を奮い、一村感染すれば施すすべもなくバタバタと倒れ逝くだけであり、止む無く病人を山に捨てざるをえなかったのである。 これを深く憂えた心外悦和尚は鳶尾山頂に登り、連日連夜病魔を除くため祈願す。
一月九日、この日、天地がピリピリと脈動すること数回、夜になって、山頂に入りて御座松の下に到り、尚、祈願臥座すところ、神が送る響きで天地振動し、深く経を詠すれば、新月織々として星光天に満ち、連山寂々が急に一陣の微風萌楓として幽松の梢を吹く。 頭を上げて樹上を見れば老翁現われ「吾は天竺王舎城の守護神・金刀比羅羅天なり、そなたの衆生を思う厚き心に感じて、永くこの地にあって衆生済度の為に尽くそう」言うや、又連山鳴動し、かつ然と眼が覚めれば驚くべし「大宝積経・金刀比羅授受・記本一巻」が置かれてあった。
翌十日は総本家讃岐の金刀比羅宮の開祖と同じであった。 心外悦和尚の不借身命の活動が一脈の光明と生気を与え、やがて病苦の悲泣は快癒の感謝に到る。 ここは御座松を仰ぐ金刀比羅の社と古松は近郷の人達が感謝して築いた記念の標である。
享保十年 吉宗公・病気快癒の為 再興
文化十一年 家斉公・厄年の為 再興
大祭 一月十日 五月十日 荻野地区中荻野・養徳寺世話人 』
因みに、養徳寺は鳶尾山の山麓の中荻野地区にあって、室町初期の永和4年(1378)に開創したとされる古刹でもある。 徳川幕府からも朱印状を賜り寺領石高も5石を受領している。 住所は厚木市中荻野1635番地で、筆者の散歩コースの途中にあります。
次回は、いわき湯本の「いわき市」について、




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