2021年5月8日土曜日

更に、「白鳥山・龍勝寺」に関して、

 

更に、「白鳥山・龍勝寺」に関して、

 

いわき湯本 更に、「白鳥山・龍勝寺」に関して、

 

序ながら、わが菩提寺・龍勝寺についてチョッと述べてみよう。

いかにも田舎の風情漂う静観な山間に、境内・寺院が在る。 寺院は当地区、旧湯長谷藩の菩提寺でもあったらしい。

「龍勝寺」と同系の寺院で、同地区内の藤原町に「建徳寺」があり、何れも臨済宗の狭義をもち、大本山は京都の妙心寺に置いている。 

「臨済宗」(宗祖・栄西)とは禅宗の一派で同系に「曹洞宗」(宗祖・道元)があるが、特に、鎌倉時代以後、武士庶民などを中心に広まり、各地に禅寺(ぜんでら、禅宗寺院)が建てられるようになったという。

この二つ宗派には広がり方に特徴があるといい、曹洞宗が地方豪族や一般民衆に中心に広まったのに対し、臨済宗は時の武家政権や武士に支持され、政治・文化に重んじられた。

両宗派とも平安末期から鎌倉期に始まり鎌倉、室町に絶頂期を迎えるが一時衰退し、その後時代を下り、江戸時代に白隠禅師によって臨済宗が再建されたため、現在の臨済禅は白隠禅ともいわれている。

 

禅宗とは、一般に座禅を組んで悟りを開くといわれるように、実践的宗教観に裏打ちされたものという。 教義の説明はいくらでも可能であるが、実践がなければ机上の空論とい

う教えだ。

実践的というのは、例えば詩歌や絵画を始めとした芸術的な表現の上にある「悟り」や、芸術以外にも茶の湯や生け花を始めとした立ち居、振舞いなどにも表現されており、振舞いをたどることによって、「悟り」の世界を味わうという手段も生まれているとされる。  つまり、この「悟り」こそ武士道に通じるものとされ、武士の信仰対象として臨済宗が重宝がられたという。 

京の妙心寺各派の寺院もそうであるが、日本でも最初に興ったとされる武士の府である鎌倉には、ご存知、建長寺(建長寺派)や円覚寺(円覚寺派)といった大寺院に代表される鎌倉五山に禅宗文化の華が開いた。

 

前置きはさておき・・!、

しかしながら、我が家の菩提寺・妙心寺派の龍勝寺を檀那寺に選んでいるのは臨済宗を特別信仰しているのではなかった。(・・と思われる)それは江戸期に発布された「寺請制度」(檀家制度ともいう)によるものと推察される。

 

「寺請制度とは、江戸初期の頃の徳川幕府の施策であり、当初はキリスト教禁制を徹底させる目的で、人々を寺院に帰属させ、証明させた制度であった。 従って、発令された後は、必ずどこかの寺院の檀家に属さなければならず、葬式も仏式を強制させられた。
寺院では現在の戸籍に当たる「宗門人別帳」が作成され、併せて出生・死亡・旅行・移転・婚姻・奉公などの今で云う戸籍届けや変更も義務付けられた。 つまり、これら個人情報を寺院が管理し、生活をも監視するシステムであった。
これらによって各戸には仏壇が置かれ、法要の際には僧侶を招くという慣習が定まり、寺院には一定の信徒と収入を保証される形となった。

 

 

しかしながら一方では、寺院の側からすれば、檀信徒に対して教示を実施する責務を負わされることとなり、仏教教団(未だ神仏習合の時代)が幕府の統治体制の一翼を担うこととなる。 僧侶を通じた民衆管理が、法制化され事実上幕府の出先機関の役所と化し、本来の宗教活動がおろそかとなり、また汚職の温床にもなってしまったともいわれる。(現代で言う官僚機構の腐敗)  この事が、明治維新時に極端なまでの「廃仏毀釈」を招く結果になったともいわれる。
 
しかし民衆は、「寺請制度」が先祖代々その家の宗教として受け継がれ、現代でもお葬式の約8割は仏式で行なっているという。 元々日本は神の国であり、本来は神式の葬式が仏式よりも多くなければおかしいが、現代でも仏式が圧倒的に多いのは江戸時代より供養は仏式という構図が出来上がってしまっているからだという。
つまり我が家を含めて一般に、檀那寺と檀家の関係は信仰心に関係なく、或は、半強制的に入信させられて、その地域の寺院に帰属したのであった。

 

 

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