湯長谷藩という「藩と行政名」
ところで、徳川幕府は大名が守るべき規則となる「武家諸法度」(慶長20年・1615年)、すべての僧侶が守るべき規則となる「諸宗寺院法度」(寛文5年・1665年)、朝廷に対して統制を図るための「禁中並公家諸法度」(慶長20年・1615年)をそれぞれ設け、幕府体制下に組み入れることで安定した政権を図った。 また、幕府は大名統制として、大名の所領を没収する改易、領地を削減する減封、領地を他へ移しかえる転封、をそれぞれ実行することができた。
徳川幕府は、江戸(江戸城)に政治の中枢である幕府を置くに当たって、守りを固める必要があった。 即ち、江戸に近い地域に幕府領(幕府直轄領+旗本領)あるいは関ヶ原の戦い以前から徳川家の縁戚あるいは家臣であった親藩・譜代の大名をできるかぎり配置し、江戸から遠い地域には徳川家とは無縁か、かって敵対していた所謂、外様大名達を配置する方針を採った。 磐城平藩や湯長谷藩は、いわき地方の外様大名である相馬家や伊達家などに対する最前線的な地理的条件を備えていたと言える。
又、大名所領の規模は石高であらわされた。 「石」とは土地の生産性の基となる単位で、たとえば藩などに仕える武士が100石取りと言われれば、それは武士に与えられた給与のことで、大名・旗本の収入や江戸城修理など、幕府の諸役負担の基礎ともなった。
諸法度にともない幕藩体制の一般的傾向として、特に譜代大名は外様大名に比べたびたび転封が行われ、いわき地方においてもこの傾向がみられた。 湯長谷藩の本家筋である磐城平藩では、江戸中期の(1738年)発生した百姓一揆が原因で(元文百姓一揆)、それが処罰的な意味も含め、六代藩主内藤政樹の時代の1747年に、内藤家は九州宮崎の日向延岡に転封となっっていて、親藩である磐城平藩の内藤家は消滅している。
一方、湯長谷藩は改易や転封にも合わず幕末まで其の名を残し、幕末の戊辰(ぼしん)戦争では、奥羽列藩同盟に加わったことを理由に1000石を減封され、明治の政権になった1871年(明治4年)の廃藩置県で湯長谷県となり、磐城平藩は平県、磐前県を経て福島県に編入されたのです。
次回、内藤家と菩提、鎌倉光明寺、
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