磐城平藩の歴代藩主について、
江戸時代からの磐城平藩の藩主は先代の鳥居家であったが、その後は山形に転封後、磐城に来たのが「内藤氏」であった。 これ以降にて磐城平藩は7万石となり、内藤家は永く、江戸初期から125年間、六代の永きに亘って治めていた。 六代目内藤 政樹の代の磐城平藩では、天変による洪水や凶作、また悪政などにより藩財政の破綻が続き、そのため重税で苦しめられ、領民の不満が鬱積していた。
そして、ついに元文3年(1738年)に「元文百姓一揆」と呼ばれる大規模な百姓一揆が発生する。 その責任をとって内藤政樹は日向(宮崎県) 延岡城7万石へ移封となり、磐城平を去ることになる。
去るに及んで・・、
『日に向ふ(日向) 国に命を 延べおかば(延岡)
またみちのくの(磐城) 人に逢うべし』
と詠んでいる。
江戸期最後の大名は「安藤氏」で、入封後、藩校・「施政堂」を八幡小路に創設し藩士の子弟を教育を行うなど善政を施している。 特に、歴代藩主の中で最も有名なのは、第五代藩主・「安藤信正」であった。 幕末の桜田門外の変の後、老中として幕政主導したが、文久2年(1862年)の「坂下門の変」(江戸城坂下門外にて、尊攘派の水戸浪士6名が老中安藤信正を襲撃した事件で、この結果、安藤は負傷し、老中を罷免された)で失脚した。 現在は「松ヶ岡公園」に銅像が残る。
その後の戊辰戦争では、奥羽越列藩同盟として西軍と決戦、鳥居氏築城から260余年を経て、いわき平城は落城している。
昭和41年、5市(平市、内郷市、常磐市、磐城市、勿来市)、4町(四ツ倉町、小川町、遠野町、久ノ浜町)、 5村(箕輪村、赤井村、三和村、好間村、大久村)が大同合併し、現在の「いわき市」が発足している。
次回は湯長谷藩という「藩と行政名」
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