● 古代の信仰の対象、原点の「山」が教えるもの、
ところで、日本は元よりアジア系の民族は其の国の宗教的な意味合いで山岳信仰が盛んに行なわれてきた。 日本では其の山岳信仰がもっとも盛んな国柄で勿論、古代信仰は神にもとずくものであったが、神仏習合によって一体となって行なわれてきた。 地元の自然や山や山岳信仰は自然崇拝の一種で、狩猟民族などの山岳との関係の深い自然環境に対して抱く畏敬の念、雄大さや厳しさに圧倒され恐れ敬う感情などから発展した宗教形態であるとされている。
そのような信仰形態を持つ地域では、山から流れる川や、山裾に広がる森林地帯に衣食住の全てに渡って依存した生活を送っており、常に目に入る山からの恩恵に浴している。 その一方で、これらの信仰を持つ人々は、険しい地形や自然環境により僅かな不注意でも命を奪われかねない環境にあることから、危険な状況に陥る行為を「山の機嫌を損ねる」行為として信仰上の禁忌とし、自らの安全を図るための知識として尊崇しながら語り継いでいると考えられる。
さて、我が古里の湯の岳、筑波山、大和の三輪山などについて述べてきたが、そして小生が住んでいる(神奈川・厚木市)拙宅の二階の窓から、丹沢山系の一つ「大山」(おおやま・1252m)が見渡せる。
この相模の国の大山の類似共通性についてですが、山好きな小生が手軽に日帰りで行ける山であり、年に数度はトレーニング代わりに登山している山でもある。 思えばこの山も、筑波山、湯の岳、強いては大和の三輪山に類似している端正な姿を見せているのである。
この大山も神の山で古来より崇められ、江戸期にもなると大流行した「大山参り」といって近郷近在をはじめ遥か彼方より参詣にこられた由緒ある山なのである。 この大山参りは古典落語のネタにもなっていますが、歴史的には西暦820年、「空海」が47才の時、彼が東国を教巡していた頃、徳一大師の誘引により「大山寺」に上り、真言宗として大山第三世管主となっているのです。
山腹の阿夫利神社の名を当初は「石尊大権現」と名付け、徳一は富士浅間社の神である大山祇神(オオヤマズミノカミ)を大山に勧請したとされている。 現在は神仏分離で山腹の阿夫利神社(中腹の下社と山頂の奥宮・雨降山)と其の同じ中腹のチョット離れたところに大山不動尊(石尊権現)が配しているのです。
因みに、石尊権現(せきそんごんげん)とは、大山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神で明治期に神仏分離が行われ、今では大山阿夫利神社と雨降山大山寺に分離されている。 信仰の対象は昔は大山の頂上にあった巨石が御神体で「石尊大権現」とも言われていて、石尊信仰(石尊権現)と呼ばれる山岳信仰が誕生したともいわれている。
当時の盛んだって石尊権現信仰は、相模国の大山から始まり関東周辺に広がり、各地で石尊山の名称や石尊宮の建立が興り、そちこちで石尊講が組成されたり太刀類が奉納され納めたとされている。 これらの大山講は、地元の相模・武蔵を中心に安房、下総、上総、常陸、下野、上野、磐城(我が田舎)、甲斐、信濃、越後、遠江、駿河、伊豆に及んで、総講数の数は何と1万5700、総檀家数約70万軒にも達したともいわれていりる。 参詣者は山を歩きながら夫々に「懺悔懺悔 六根清浄 大峰八大金剛童子 大山大聖不動明王 南無石尊大権現 大天狗・小天狗 哀愍納受 一龍礼拝 帰命頂礼」などを唱えていたという。
次回は、「追記;慈覚大師・円仁のこと、」
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