2021年6月20日日曜日

石城地方と文化の普及、

 

● 石城地方と文化の普及、



然しながら石城地方は、元々は古くからは関東圏に内包されていて、東北地方ではもっとも早く開発され、大和朝廷に組み入れられた地域であることは確かであろう。 弥生文化といわれる生活様式も鉄器、稲作などが導入されたのも比較的早く、そして海の幸・山の幸を含めると石城地方が、ある時期までは東北地方でもっとも豊かであったらしい。 季節的にも普通云われる東北のイメージとは異なり、雪などはめったに降らない温暖な地で、東北の「湘南」とも言われている。 


 方では、東北南部は蝦夷を含めた旧態の豪族たちが、朝廷を倒そうと東国の兵を動員して京(奈良・平城京)へ向かおうとした地域であったともされている。 だが、平安初期のこの時期、「坂上田村麻呂」により遮断されるという動乱も起きている。 石城地方は、それらの旧態勢力と新規勢力の抑えの拠点であり、この地に石城軍団が置かれていて、石城の大領(たいりょう:平安初期における郡の長官のこと・陸奥国磐城郡の大領)に磐城雄公が配され、天皇から從五位下という官位まで受けている、という記録もあるようである。


 ところで、大和朝廷の東北進出は、はじめは武力による力が主であったが、経営的には文化の両面からも行なわれたであろうといわれ、その文化の面では特に「宗教」(この場合は仏教)の普及に力を入れたのではないかと思われるのである。


 初期に大陸から「仏教」が伝来して以来(538年)、変遷を経ながらも中央官人に認められ、仏法興隆の詔が出されるまでに到る。 後に仏教の布教活動によって全国に伝播することになるが、石城は仏教教化の重要な拠点であったのではないかとも言われ、その中の一人に「徳一」(名門。藤原家の徳一)という名僧がいたことは史実でも明らかにされている。


 「徳一」(とくいつ)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗(ほっそうしゅう)の高僧で、父は朝廷の一員である「藤原仲麻呂」で、徳一はその十一男とも伝えられている。 彼は初めのうちは東大寺で法相教学を学んだとされ20歳頃に東国へ下ったとされている。


新興宗教(平安初期に大陸から導入した密教=インドの仏教のこと)の空海とも相容れず、最澄との間では一大仏教論争である「三一権実諍論」(さんいちごんじつそうろん)を展開したことは有名である。 


この間、陸奥国会津、常陸国筑波山など陸奥南部から常陸国にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」とも称された。


 次回は、 いわき湯本の「長谷寺と藤原徳一」




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