
● いわき湯本の「長谷寺と藤原徳一」
高僧・「藤原徳一」と長谷寺についてですが、 湯本の駅から1.5km、歩いても15分程度の上湯長谷地区に「長谷寺」があります。 今では立派な庭園と瀟洒な寺院が建っているが、「徳一」が開基した寺とされ、創建年代は都が平安京に移されて間もない807年といわれる。
長谷寺の本尊である十一面観音(県重文)は鎌倉末期の仏像であるが、その胎内には長文が記されていて、その中に『奥州東海道岩崎郡長谷村観音堂徳一大師建立所也』とあって、徳一建立が明記されている。
この古書は古寺の第一級資料に当たるとされ、内文によって『神明鏡』(14世紀後半頃、神武天皇から後花園天皇までの年代記で、時代ごとに仏教や合戦などの特色が説明文で記載されている)と比較すると、平城御願長谷寺、つまり平城天皇(第51代の天皇・在位806年~809年頃で、桓武天皇の長男)の意思で建てられたか、或はそれに準ずる格式のある寺である。 つまりは、中央政権下の藤原氏の強力な支援があったとされ、そのことが歴史的に大きい意味合いを持つとも言われる。
徳一が何故、このような片辺の地に居を構え、小院を起こしたのか・・?、 それは、正面に拝謁できる、現、湯本の町の郊外に聳える「湯の岳」を仰ぎ見たことに他ならないといわれる。
徳一の故郷・奈良の都には神の山・「三輪山」があり、この神山と湯の岳は余りに酷似していて両山を重ね合わせ、懐かしさに震えたかも知れないのである。
湯嶽、湯の岳(ゆのたけ)は先にも記したが、神代の昔から地元民から尊崇された御神体山であり信仰の山であった。 標高593m、湯本の町を一望におさめる名峰である。 古代、湯嶽(湯岳)を三箱(さばこ)山(三函山)とも称したらしく、徳一は、この神霊なる湯の岳を仰ぎ見て、「三学の箱(函)」を納入したことから、この地名が「三函」と名付けたといわれる伝説もある。
中世には既に、この山は「サハコ山」ないし「サハク山」と呼ばれており、それに因んで山麓地域は「三函」という名もあり、温泉もまた三函(サハコ)の湯あるいはサハクの湯と称されていたという。
次回は、 「 藤原徳一と湯の岳、」
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