2021年6月27日日曜日

高僧・徳一は「藤原徳一」

 

 

 

● 奈良期の高僧・徳一は「藤原徳一」

 ここまで、だいぶ話が飛び飛びになったが、 徳一は「藤原徳一」であり、徳一自身は意識したか、しないかは別として、間違いなく大政治家の極く身近な直系の存在であった。 

しかし、仏門に身を置き、陰ながら藤原一門として、旧来勢力の打破、律令国家の成立の一助として活躍したと思われる。

 

石城地方の隣の常陸の国は、奇しくも藤原家発祥の地でもある。  常陸国は以降の時代を観ても判るが、慌しく戦乱武将が発生し、駆け巡った地でもあった。 つまりは、早くから開けていた・・というより、大和朝廷の側面の発祥の地でもある。 ところが、古代、蝦夷地といわれた陸奥の国は、「勿来の関」あたりで常陸の勢力圏とは暫くは途絶えていた。

 

 

九州から畿内へ、更に中部、関東と大和朝廷の新勢力が広がって、いよいよ陸奥の国の開拓に差し掛かるのであるが、この時、精神的革新を試み、自ずから蝦夷の地に乗り込んだのが高僧「徳一」であり、道具は武器でなく、文化であり宗教である仏教と言う新しい文化を引っさげて乗り込んできたのである。

 

仏教の普及が、古代からの信仰と結びつくのはごく自然の流れでもあり、「神仏習合」という利便性と説得性のある手段が活躍したのは言うまでもない。  「藤原徳一」が先ず根拠にしたのが自家発祥の常陸の国・筑波山であり、又、蝦夷の進出地とされる陸奥の南端では西の街道の会津地方であり、東の街道が「石城」であったのである。

 

徳一は、筑波山に中禅寺を、磐梯山に恵日寺を、そして「石城・いわき」には湯の岳山麓に長谷寺を置いて根本道場としたのである。 その時、藤原家の相当なる経済的政治的な側面援助があったことは言をまたない。  徳一は、藤原家の活躍地である大和の国・三輪山を念頭に、筑波山や磐梯山を開き、石城地方には湯の岳を開いたのである。 そして、領民のために、大和の三輪山を遷宮して「三函神社」(現、温泉神社)を造らせたのかもしれない。

 

 

  次回は、「いわき湯本の長谷寺と藤原徳一」

 

 

 

 

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